2024年2月18日日曜日

アーティストの知られざる独り夜警 瀧健太郎

アーティストの知られざる独り夜警 瀧健太郎 
『E-夜警』展(2023年9月)解説


 プロジェクトのタイトル《E-夜警》は火縄銃を持った市民自警団をテーマにしたオランダの画家レンブラントの絵画《夜警》(1642)に由来している。独立後のオランダ黄金期を象徴するこの作品は、自警団長が肖像画を画家に依頼したもので、題名と相まって夜に火縄銃隊が出動するかのようだが実際は昼間の情景を描いており、退色により画面全体が暗く夜に見えたということだ。絵画が完成した頃には、市民を守るこの火縄銃隊は出動の機会も減少していたという。これは社会悪を叩くための攻撃性が、ひとたび平和になると不要となり、遺物となる点において現代社会の両義性にもつながる。安全神話とは何か、その代償には何か。中世の自警団に代わって、作者は各戸や社屋が独自に設置する自衛のための技術として防犯カメラの安全性と攻撃性をモチーフに作品展示を展開している。 

 イギリスでは推定600万台の防犯カメラがあり、うち200万台が2012年のロンドンのオリンピックの際にテロ対策として設置された(i)。各都市もこれにならって、安全対策としての防犯カメラを設置が増加しており、日本でも街頭カメラ設置が500万件を超えている。これらの対策の効果として、設置後に犯罪件数が半数に落ちたという統計がある(ii)。 首脳会議やオリンピック、万博など国際的で祝祭的な都市イベントが開催されるたびに、都市の安全性の象徴として犯罪や貧困、そのほかの国のクリーンなイメージに不都合な要素はノイズとして排除されている。そもそも街のクリーンさや安心・安全とは「誰に」対して「何」を示すものなのか。 

 一方で防犯が行き過ぎると、守るべき住民を一種の犯罪予備軍としてみなすような懸念が生じてくるのも事実だ。2021年にJR東日本は駅などのカメラの検知に犯罪歴のある人物を対象にすると決めた(iii)。しかし最終的には人権の観点と社会合意の面から急遽取りやめた 。この計画では警察のデータベースと、街ゆく人の過去の犯罪歴を照合し、行動観察と犯罪者予備軍を検出することが盛り込まれていた。いささかSF的なこうした発想が技術的に可能になり、現実に起こりうる時代が来たということだ。こうした状況に我々はますます技術の持つ道徳的志向について考える必要がある。 

 ここで思い出されるのがこの数年、オーディオ技術の発展で台頭してきたノイズ・キャンセラー型のヘッドフォンだ。このヘッドフォンは聴視者の耳をすっぽり覆い外部の音から遮断する密閉型で、加えてマイクロフォンが内蔵されており、外部の音声波形を解析し、逆位相の波形を瞬時に生成することで入ってきた騒音を無音化する技術が採用されている。音は空気の振動なので、揺れている空気に逆の揺れを与えると相殺して、空気が振動していない状態が作り出される。これにより人工的な無音状態を閉じたヘッドフォン内部に作り出し、プレーヤーから流れる楽音だけを聴かせることが可能となるわけだ。 

 こうした人工的な無音状態の実現は、近年社会における排他性を様々な技術によって執行することと連動していると思われる。若者をたむろさせないようにコンビニにモスキート音を流すことや、ホームレスを滞留し休ませないように公園や公共空間に置かれる排除アートと呼ばれるオブジェなどはまさに、人的排除者を置くことなく、感覚的にその場を立ち去る、いわば「負のアフォーダンス」を促す指向が採られている。特定の層をノイズとして区別し、ある場から技術的に排除してしまうことが社会レベルで起きている。このような傾向は、IT技術を伴ってさらに強化されており、まさにノイズ・キャンセラー的文化と呼ぶべき事象がそこここで起こっている。この言葉はノイズを予防的に事前除去するのみならず、不都合な存在になった瞬時にメディアと大衆から叩かれ排除されるキャンセル文化の要素も含んでさえいる。 

 犯罪やテロ、その他の生活を脅かす危険行為が起こる裏には、貧困や不平等など社会の様々な不安定要素が引き金となっていると考えられる。それらの原因を突き詰めることなく、表面的なノイズをキャンセルしたとしても、それは本質的な問題解決になりえない。政治とはこの究明と解決のためにあって然るべきだが、残念ながら真剣に取り組んでいる様子はいまのところ見られない。 
 もし技術によるアフォードによって犯罪なき社会や都市が実現したとするなら、それは実質的ではない上辺だけの張りぼてとしての平穏の現前となるだろう。スラヴォイ・ジジェクは脂肪分のないクリームやカフェインを含まないコーヒー、アルコール抜きのビールを挙げ、たまたま否定的に受け止められた本質を抜き去った外見だけで成立するこれらは、仮想現実的なものが現実社会に現れた兆候として見ている。参照先のないシュミラークルが蔓延する状況はまさに『マトリックス』(1999)で描かれる巨大な表層世界のようだ。犯罪なき都市や、ひいては病気のない社会、人の死なない戦争、苦しみのない人生など、障害や危険性を排除した生は果たして生き抜く価値があるのか、というのがジジェクの問いかけだ。 

瀧健太郎《Security as a Cage》, 2001
 今日の多元的な世界の在り方からすれば、ある視点から負の要素とされるものを単純に分けて切り捨てるのではなく、ノイズと捉えられる部分さえも包含したプリミティヴな視点に立ち戻ることが、むしろシンプルなのではないか。例えば外部者や犯罪予備群などのノイズを排除することなしに、町の安全や防犯を考える方が同じ不確定な実践を賭けるとしてもやる価値があると思われる。確かに自己防衛本能とは生物学的観点からも心理学的考察からみても、他者を退けて(ノイズを排除して)生存するために備わっているのは明らかだ。自己の安全確保のためには、攻撃的で好戦的な人間の内なる暴力性と向き合うことになる。他者性を排除することなしに、つまり己の内に他者を認め生きることの是非はまさに哲学が歴史的に追いかけてきたテーマである。 

 ところでそのような歴史的な大義とは関係なく、作者は2000年に見る装置としてのヴィデオの特異性に注目し、観客が作品を鑑賞する際に、自身を含めた自己視認としての構造を取り入れた制作してきた。 「他人は自分をこう見ている」あるいは「見るという行為自体を見る」ことを、即時性のあるアナログ・ヴィデオの技術を使い、鏡とは違う視覚として当時の特異なメディアを盛り込んだ。その後、カメラは人間の身体の眼の機能を技術的に再現したものであることから、カメラを頭部にみたてたフィギュアを構想することにいきつく。ある晩そのような妄想を抱きながら街を徘徊していると、ヴィデオに必要なカメラ-モニタのシステムが町中のいたるところに設置(インストール)されていることに気づく。それら防犯カメラを見たとき、建物にぶら下がる頭部と眼のみの未完のフィギュアを完成したいという衝動にかられた。都市のなかで見ることに特化した機械に身体を与えてみるプロジェクトがはじまった。 

 


瀧健太郎《壊死しつつある》Necrotizing、2016年  

 その具体的な行動は2021年の秋に対象となった都市Sで開始された。都市に介入するというアート・プロジェクトの参加作品で、Sの街中に神出鬼没のごとく現れる防犯カメラが、どこに何台設置されているかをリサーチし、防犯カメラが一方的に通行人や住民を24時間見続けていることに対するアクションを行った。それは視覚のバランスを取ることでもあり、防犯カメラがこちらを監視しているなら、こちらも防犯カメラを監視してみたらという一心だった。そしてそれが見ている視点を少なからず理解するうえで、カメラの見ている画像をみせる鏡を素材に身体を作ることにした。リサーチ段階では、鏡面でできた人型のプレートを防犯カメラに一時的にぶら下げ、写真とヴィデオ記録を撮るという試みだった。プロジェクト開始後しばらくしたときにS街の警官に呼び止められ、事情聴取が行われた。軽犯罪にあたるかもしれないということであったが、2度に渡る調書と人型プレートほかの関係物証が取り沙汰されるも、結果的には起訴もされずにお咎めなしで、物証も返却された。証拠品の中には対象となった防犯カメラの映像から静止画が抽出されており、作者が人型プレートを持参して、防犯カメラから次のカメラへと歩く様子が映っていた。偶然にも法の執行官である警官によるアート・ドキュメントが行われた。 

 情報技術と物理的管理の両面からのコントロールを目指す新しい管理社会の時代において、いまや権力側が国民を管理する旧来型の監視社会は古く、むしろ監視カメラが無意識の自己規制や公共空間での行動制限を生み出すことで、市民やユーザー同士が便利なサービス利用の一環として能動的に相互監視することが重大な局面になっているようだ (iv)。ある集団が監視されているかもと思わされる権力による一望監視のパノプティコンよりも、技術によって不特定多数の眼に個人が晒されるシノプティコン(見世物的監視)といった状況が、半ば戯画的に展開してしまっている。 

 それゆえに単にコミュニティの安全性を担保するために「カメラ設置か、いや個人のプライバシー重視か」といった単純な話ではないのが現状だ。それはITサービスのような安価で小手先の技術によって表層的なノイズを除去することが、問題の深化や熟考を蔑ろにする危惧があるということだ。 
 本展では観客が作品を見ているつもりが、作品にみられている状況が含まれている。防犯カメラに固執する感じがいささかパラノイア的に受け止められることを作者は知らないわけではない。またコラージュ作品にあるようにカメラ頭部のキャラクターのシリーズのカメラ部分はすべて虚ろな黒い穴で、その向こうに誰も・何も見ていないのではないかという思いを込めた。 
 観客の皆さんが本展の会場を出て街を歩いた瞬間に、黄金町の街路にある頭部と眼だけの未完のオブジェに気づき、それを補完したい衝動に駆られたとするなら、何かの気づきが喚起されたことになるのではないか。誰も知らないアーティストによるささやかな想いに近づいてもらえればと思う。



『E-夜警』瀧健太郎、展示の様子(2023年)


i) 日刊ゲンダイデジタル「イギリスの監視カメラは600万台 市民は1日300回撮影される」https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/231524

ii) 
日経ビジネスオンライン「日本の防犯カメラ、500万台に迫る」https://business.nikkei.com/atcl/report/16/110800252/111200002/

iii)
読売新聞オンライン「駅で出所の顔検知、JR東が取りやめ…『社会の合意不十分』と方針転換」2021年9月22日。https://www.yomiuri.co.jp/national/20210921-OYT1T50240/

iv) デイヴィット・ライアン『監視文化の誕生』田畑暁生訳、青土社、2019年。


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