2020年3月5日木曜日

相内啓司『い(ま)え in betweenー存在とイマージュの境域ー』DVD

映像・造形作家 相内啓司さんの活動を記録した全集 『い(ま)え in betweenー存在とイマージュの境域ー』に寄稿しました。

 『い(ま)え in betweenー存在とイマージュの境域ー』
2枚組DVD/計213分 同梱冊子/A5判変形カラー80ページ

 DVD同梱される冊子には映像作品、インスタレーション、絵画、童話などの記録に加え、哲学者 小林康夫との対談、コンセプチュアルアーティスト・映像作家の飯村隆彦へのインタビュー、映画監督・映像批評家の波多野哲朗、ヴィデオアーティスト河合政之、ヴィデオアートセンター東京代表の瀧健太郎の書き下ろしレビューを収録。

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2020年1月30日木曜日

反証的仮構空間―ヴィデオと建築

虚実の二重焼き付け
 2019年8月に筆者は東京・住吉の妙壽寺猿江別院という寺院のギャラリー空間の一角に、映像投影する作品《コーナーピース#4》を展示した。同シリーズは特別に注意を払われない部屋の隅や、何気ない場所に映像を映す試みとして、過去に2005年と2009年に3回の発表を行ってきた。

 その契機には1999年に筆者がヴィデオ・プロジェクターを平面のスクリーンではなく、部屋の角に映し、そこから凸凹の立体的なオブジェ上への映像投影を行う作品に発展したことにあった。そこには各作品のコンセプトとは別に、連作を通して映像が持つフレームからの脱却が念頭にある。
《コーナーピース#4》(2019)瀧健太郎
映像史を紐解くとアベル・ガンスが3面スクリーンで制作した『ナポレオン』(1927)をはじめ、画家がキャンバスサイズや比率を自由に選ぶように、映画作家やヴィデオアーティストがスクリーン形式に対する様々な模索をしている。戦後には拡張映画から万博のパビリオンでの試みに至るまで、あくなき映像のフレームへの挑戦として探究されている。

 1970年の大阪万博で「インターメディア」と称されたいくつかの試みの中には空間や立体物へのフィルム映写が数多く模索されていた。松本俊夫の《スペース・プロジェクション・アコ》(1970)では、女性の彫像に同じモデルを映したフィルム映像を投影しており、彫刻は単に映像を映し出すスクリーンとして、もはや画面とは呼べず、それ自体が記号として1つは「女性の彫像」ともう1つは「女性のイメージ」の二種類の記号が相互に重ね合わさった状態として提示された。

 この場合、映画の支持体であるスクリーンが映写と同時にその存在感を失う一般的な映写とスクリーンの関係にはなく、スクリーンが映写にも強く関わってくるという特異性がある。鑑賞者は彫刻と映像を個別に知覚するのではなく、それぞれが干渉し合う、二つの異なる媒体による記号がぶつかり合う「スーパーインポーズ(二重焼き付け)」と呼ぶべきモンタージュとして経験されていると考えられる。

 筆者もまたそうしたインターメディア的試みを追体験するかのように、ヴィデオ・プロジェクターの実験するなかで、画面比率の関係ない表現を空間上に展開できることを発見した。この時、被投影の対象となる空間に、映像ならではの「嘘」を重ね合わせ、現実と非現実の相まみえる不思議な感覚を生み出すことに興味を覚えた。

 その過程にはカメラ映像が「一点透視」で機能していることが重要となり、撮影時にカメラ-対象空間の位置を記録しておき、投影時にはその同軸上にプロジェクターを設置すると、撮影時の空間のキャプチャを、対象空間に映像で再現することができる。これによりトロンプイユ(騙し絵)のような効果が得られるが、同時に撮影時のレンズの前にペットボトルや定規などの物体を置くと、カメラではそれらしく映っていた映像が、同じ映像を同じ空間に再度投影すると、プロジェクターに近い位置の物体は透視図法の関係で拡大されるため(プロジェクターと壁面の間に遮るものがないため)、実際に壁面まで到達した映像は歪んだ像となる。

また撮影時に照明を動かすと画面内に配置された物体の影は動き、同じ映像を同空間に投影すると、画面外の照明は映されていないのに影だけ動くことになる。さらに画面内に鏡を持ち込むと投影時には存在しないカメラが、投影時には観客側にあるように見え、ディエゴ・ベラスケスの絵画《ラス・メニーナス》の王夫妻のような映り込みが可能となる。そのような撮影範囲の外、画面外の要素を含んだ虚像を、実空間に重ねることは、時間軸の違いを空間的な知覚へと置き換えるズレを引き起こす。これにより実空間への映像の再投影の試みは、映像が虚像であることをより際立たせる。

スケールとカットの問題
 フィルム映画の誕生以降、我々は様々な映像のルールを学習してきたと言える。カットやズームの撮影手法では、例えば画面内の小さな人物は、カメラと対象との距離として理解され、遠くにいる人物として知覚される。逆にアップ/ズームインされた人物のイメージは近接するものとして理解され、スクリーン内のイメージは、現実空間と切り離された物理法則の異なる場として捉えられてきた。
《コーナーピース#4》制作中の様子


 ところが前述のような空間に対する映像投影の場合、比較対象となる部屋の構造物(梁やダクト)があるため、映像のスケールに関するルールが無効となる。つまり画面内部だけで成立する従来型の映像言語に加え、場や建築が持ちうる空間言語というべき物理的存在感と混在されてしまう。空間言語とは言わば我々が生きる実空間と地続きでライフサイズに展開する事物の存在や出来事だ。

 また建築や空間は機械仕掛けの構造でもないかぎりそれ自体が運動することはなく、自然光や照明による環境の変化、経年による質的な変化など比較的ゆっくりした時間を想定されている。映像と空間のメディウムとしての差異を踏まえると、イメージが空間に投影され、重ねられる場合、両メディアはお互いに補完関係あるいは批評的な関係にあるのではないか。両者は打ち消しあうのではなく、常にどちらの様相も伺いながら知覚されている。「スーパーインポーズ(二重焼き付け)」と筆者が呼びたいのはそのことであり、物理空間に光学的な記号の介入があることで、別な意味を引き起こす可能性である。

 そこではカットなど映画的な編集方法で寸断されれば、たちまち前述のようなスクリーンとして認識され直すのかもしれないが、カットのない長回しで実空間と同寸の映像を映し続けた場合、映像のスケールは空間とより密接な関係を余儀なくされ、そこに二重焼き付けを引き起こす。2018年に新宿ゴールデン街のバーで行った《空調機の自撮り》はそのような実験を示す。この場合、空調機と本棚の上に20cm程に縮められた人物像が繰り返し映され、展示時間内にずっと周辺を動き回り続ける。

 それはエリック・サティの言う「家具の音楽」のように観客は映像内の小人のようなその存在を無視することもできる。同時に普段はエアコンのダクトや配線、本棚の留め具などのオブジェに焦点が当てられ、我々がそのようなささいな存在を無視していたことに気づかされる。黎明期に家具として家庭に入ってきた、情報メディアとしてのTVが、次第に大型化したスクリーンは壁面として空間の一部に、小型化したモバイル機器は携行品として環境の中に分散された。二重焼き付けの方法論とは胡散霧消したメディアを場に引き戻し検証することなのかも知れない。

二つのメディアの交差
 ポーランド出身の現代アーティスト、クシシュトフ・ヴォディチコはこの「二重焼き付け」の効果をうまく利用した社会参与的な試みをいくつも行ってきた。スライド映写機を使った〈パブリック・プロジェクション〉シリーズの初期にあたる1980年代に彼は、ワンポイントのイメージを付加することで建築物を擬人化させ、官僚制への批判を行う。2000年代には建築ではなくN.Y.の公園に置かれたリンカーン像に、イラク・アフガンの帰還兵の顔を映し出し、彫像に戦場の悲惨さと帰還後の社会復帰の困難さを語らせている。

 《エイブラハム・リンカーン 退役軍人プロジェクト》(2012)で、ヴォディチコはアメリカ合衆国が歩んだ戦史という歴史的文脈を下地に、被害者の声と顔のイメージを利用し、現在も相変わらず戦争状態であることを公共の場において、批判している。この場合、南北戦争時の軍人でもあったリンカーンの「物理的な彫像」と現代の「帰還兵の証言」という二つのドキュメンタリー的要素が掛け合わされている。初期のヴォディチコのスライド投影がベルリン・ダダに参加したジョン・ハートフィールドと比較されたように、この2000年代の彫像への退役軍人の投影もまた一種のモンタージュとして読むことができる。

 ハートフィールドはナチスやヒトラーなどの政治家のイメージと、既存の別なイメージを掛け合わる巧みなコラージュを、自らフォト・モンタージュと呼称し、雑誌やポスターでファシズムの台頭に警鐘を鳴らした。そこには見えざる脅威を視覚化することで、人々にリアリティと対峙し、向き合うことを促したと言える。ヴォディチコの彫刻とプロジェクションの組み合わせもまた、異なるメディアによるモンタージュとして、起こりつつある現在の戦争体験が、歴史的な時間と交差することによって現出するように構成されている。

 そもそもエイゼンシュテインやヴェルトフが提唱したモンタージュ理論とは、イメージの意味や記号どうしを時間軸上にぶつけることで新たな意味を生成することであった。つまり因習や既成の事実として観客が知っていることに、新しい感覚=リアリティを呼び覚ますことが目論まれたと考えることができる。その理論から、隠された日常の記号や意味を私たちが探ることは可能だろうか。

政治的空間の起動・無効化
 拙作《ダーク・ツーリズム》(2019)はドイツの写真家カイ・ヴィーデンホーファーが、シリア北部の街コバーネ(Kobane)の空爆後の様子を映した写真展が、「ベルリンの壁」のコンクリート壁面を使って展示していたところを、壁とその観客と共に再撮影したものだ。人物の背景には同時代に起きている戦場を拡大した模造があり、そこを人々は単に傍観的に通過するか、またはスペクタクルとしてスマホの写真に収めるかのどちらかで、日常空間とは違う一種の虚構としての観光業(ツーリズム)を受け入れていたようだ。

《ダークツーリズム》(2019)瀧健太郎
では「リアリティとは何か」と問われれば、至極難しい問題で、我々は誰しもが本物かどうか瞬時にわかる一方で、その境界をどのように知覚しているのかは知る由もない。しかしながら上記のベルリンの壁に貼られたシリアの戦場のように、ひと昔前の出来事や遠く離れた場所での惨状をモンタージュするような場において、ベルリンを訪問した観光客はまさに虚構と現実の相まみえるような空間に立っていたことがわかる。

 人は、自分が知覚している空間が果たして本物かどうか疑うだろうか。あるいは生きている時間を疑い、どこか「別様な」時間を希求することはあるだろうか。 例えば映画「マトリックス」(ウォシャウスキー兄弟監督、1999年)で主人公ネオは、本物の世界そっくりに出来ている虚構の世界「マトリックス」に疑いを抱くが、目覚めれば荒廃した核戦争後の崩れ去った現実の世界に直面した。

 SFの世界観だけでなく「トゥルーマン・ショー」(ピーター・ウィアー監督、1998年)では、主人公は子供のころからずっと「リアリティショー」番組としてオンエアされ続けており、自分の住む世界がテレビ番組のために作られたものとして描かれたことも共通している。

 これらに対し3D映画で話題となった「アバター」(ジャームズ・キャメロン監督、2009年)の主人公はVR技術を利用した異星人に似せた代理の体(アバター)を利用し、宇宙開拓のために異星人を土地に潜入し、立ち退きの交渉に入り、その星の資源をぶんどる話が前半にある。この場合は、主人公が彼を取り巻く退役軍人あることや半身が付随で車いすであるという現実から、異星人の部族の王子になるという逃避であり、自分にとっての虚構の世界、つまり他者の現実に優位性を置くという物語の構図があった。

 これらの物語が象徴するのは、隅々にわたるまで用意されたサーヴィス社会的な「偽物」か、何もない砂漠のような、それでも現実の場所という「本物」を取るのかという二者択一の問いだと言える。換言すれば、それは経済優先の勝敗で人間が疎外されるギャンブル型社会の「リアル」さか、道徳や人間中心型の原始社会への回帰という抹香臭い「リアル」を取るのかという究極の選択なのかも知れない。

 また一方でこれら虚実の彼岸とは、既に我々の日常生活に深くかかわっている。スマホ操作に熱中する「スマホ歩き」は時に駅のプラットフォームから転落する事故も引き起こしており、画面内の視覚的な情報空間と、現実の世界の知覚のズレから生じる現象だ。またゲーム内の視覚情報と現実の世界が組み合わさることに魅了された「ポケモンゴー」現象は、アニメキャラを日常空間に現出させた以上に、社会に適合することに能動的ではあなかったオタクや引きこもりを家の外に出させたことは興味不快。ひょっとしたら仮想空間での彼らのアクティヴさを現実空間で行動させるという、仮想空間の延長上に彼らはポケモンを捕まえに公園に出ているのかもと思わせる側面がある。

 イメージと空間に関する虚・実を巡る逆転現象が起こる場合、何かの力が働いた故であるという風に思えることもある。構造計算書を偽造した2005年のいわゆる姉歯事件や、2018年の建設向けの油圧機器などの免振・耐震のデータを改ざんしたKYBの件などは、表面上は機能する建築と見せかけて、実際はそれに満たない映画の書割かセットのように作られていた。建築や都市の整備は経済的な圧迫を受けコストを下げると、現実の空間であることを放棄し、ほとんど「仮想現実として現前」する。

 このような特異な事件だけではなく、昨今の建売住宅のほとんどがCADといわれる3DのCGソフトで組み上げられ、プラモデルのようにユニット化されたパーツの組み合わせで建設されていく一連のプロセスにも仮想現実が現実化していく一面を認めることができる。このようにイメージと空間の融合とは、「イメージ=虚像」・「空間=現前する場」という固定的な状況設定やどちらかに優位性を与えるよりむしろ、イメージと空間が虚と実の混在するような状況についての思考を促してくれる。

投影+空間の示唆するもの
 《コーナー・ピース》は平面的な視覚技術であるヴィデオが、空間と結びつきリアリティに関わろうとする試行と、空間や建築物の固定的で不動の印象が運動や光学的なアプローチへと非リアリティへの接近との交差としてみることができる。前述の虚構化、現実化の二項対立で考える場合、どちらかの優位性を説くのではなく、それらを行き来するような新しい感性あるいは知覚を喚起させることで、現在のイメージや空間にまつわる問題系を超克できるのではないかというのが筆者の主張だ。

 また筆者の路上でプロジェクターを持って走る試みもそのような、実在する自分の分身(投影)を、現実のビルに現出させることで、単に他人の所有する建築に登ることや、重力から解放されることだけではなく、他者としての自分と現実の自分を虚実の関係性の中で、第三の可能性を喚起させ、両者を同時に知覚する、あるいは行き来しながら知覚する一つの思考訓練なのである。

 
二つのメディアを象徴する筆者のドローイング

2005年以降に各地で行われているプロジェクション・マッピングを、ここまでの議論と照らし合わせると、概ね二つの課題を見ることができる。一つは様々な建築ファサードの投影において、綿密にデザインされたCG映像などにより映像が建築を従来の意味でのスクリーンとして単に投影の支持体として利用している点と、また建築側も映像を構造上に付加された光学的な装飾としてしか利用できていない事例が多いことだ。

 もう一つに被投影体となる建築や構築物の物理的な経年や歴史的な時間を、映像編集上の操作された時間が交差させるような根本的な実験と試行がなされていない点だ。「プロジェクション=投射」を心理学的に読解するなら、それは他者から自己に向けられる視線に自己の無意識を「投射」だ。そしてその「マッピング=位置付け」が可能であるなら、場や建築に潜在しつつも、何らかの抑圧や外圧によって照射できてないイメージが投影されるべきではないか。

 今のところ一般的にみられるプロジェクション・マッピングの事例では、建築や構造物を立体的なスクリーンとしてイメージ投影しているものの、平面に映していないこととの明確な差異が見いだせていない。だとすれば建築と映像、実在と虚像の要素を相互に引き出す《コーナーピース》のような試みはまだしばらく有効な実験なのではないだろうか。

 二重焼き付けとは異なる複数のメディアを同時に理解し、仮想空間が現実に入り混じるとき、実際には現実と認識している空間こそ仮想的で内実がないことや、ひいては都市のスペクタクル化により都市に中身があったのかという問いを喚起させる契機となり、同時に浮上してくる二つの問題を理解することがあってもいいだろう。それは人の現実か蝶の見ている夢なのか、どちらの優位性を認めず、同等に捉えた荘子の「胡蝶の夢」で示された逸話に似ている。細分化された目的論的な受容ではなく、統合されたものとして実践を促す実例なのだ。