2022年8月8日月曜日

Knappe Berürung制作ノート

Knappe Beruerung(Critical Touch, 2021)
 《Knappe Beruerung》(2021)は2021年5月に完成し、10分のヴィデオ作品として同月デンマーク、コペンハーゲンの音楽祭で初演された。ドイツ、フライブルク在住のピアニスト、中村麗の依頼で彼女の書籍出版にあわせた企画として、複数の映像作家が中村の演奏を視覚化し、映像作品として残すという趣旨で、小生も参加することになった 。本作に至る経緯として、作者のヴィデオ・モニターのフレームと身体の関係を綴ってきた拙作《Living in the Box: Dimension》(2007-2013)がある。このシリーズは発表の機会を経る度に変化・変奏されており、この機会に忘備録として一連の流れについて記しておきたい。

 シリーズは習作のSD版として小型のモニター(これ自体は2005年のエロディ・ポン展で使用したものを流用)を縦においたものを恵比寿のアートスペースで展示しており、その後同習作版はVCTから出版したコンピレーションDVDにも収録された 。 そしてさらに発展版のインスタレーション《Living in the Box:Specimen》(2007)が目黒区美術館の企画展「目黒の新進作家-七人の作家、7つの表現」で展示された。この時は出演してくれた伊逹麻衣子と大江直哉とともにインスタレーションの前でパフォーマンスを行っている 。この後HD版のシングルチャンネルが作成され、ドイツ、メキシコ、インドネシア、フランスでの展示やイベントに出品された。大江伊達らとツアーした2009年にはベルリンでライヴパフォーマンス、またフランクフルトで開催された日本映画の映画祭Nippon Connectionのオープニング・アクトを行っている。
 この流れとは別に2013年にはドイツのカールスルーエにあるZKMでのコンサートにて、渡辺裕紀子作曲の《Living in the Box II for piano》が中村麗によって演奏された。

 身体と箱のモチーフは早くには2003年に渡独した際、ZKMの企画展で見た画面の中の人物がモニターの内側をハンマーで叩き、ブラウン管モニターのフレームを強く意識させるゴットフリート・ベヒトールドのヴィデオ作品《test1》(1971)や、山本圭吾の《Hand No.2》(1976)のような作品と、隣接するカールスルーエ造形専科大で研修した際にみた同窓生であったイーノ・ヘンツェの「無題・箱」(2000年)に触発されて、ヴィデオ・メディアが宿命的に持つ特異性であるモニターのフレームを何かの形でモチーフにしたいという願望からスタートしている。帰国後、ふと見に行ったダンスパフォーマンスでひと際目立っていたダンサー、伊逹麻衣子に出演依頼をして、彼女を当時小生が務めていた映像の専門学校のスタジオで同校の学生だった大江直哉や他の学生を巻き込んで、学校機材でいち早く取り入れられていたHDVハイヴィジョンカメラを使用して実験的に撮影がはじまった。撮影用の箱のセットは各体のパーツに合わせて、順番に制作され、箱が出来上がる度に伊達に来てもらって、撮影を追加していった。

 当初は自分の体でテスト撮影をしたが、これが酷くてとても見られたものでなく、まず見られる身体・晒される身体に長けている人を思って、伊逹に声をかけたのを覚えている。伊逹は作品の趣旨とまだ未分野の開拓であることをよく理解してくれ、毎回の撮影で見事にこちらの意図を越える動きを見せてくれた。本来ならステージを縦横無尽に踊ることが本分であるコンテンポラリー・ダンサーをわずか数十センチの狭い区切られた箱の中で踊って欲しいという演出に彼女は快く付き合ってくれた。学校の撮影スタジオに、箱の前や上にカメラを固定し、女子学生をアシスタントにして、伊達が裸体となって箱の中で演技するのを、サブでチェックしながら収録が行われた。舞台で見られることに慣れている伊達の動きが素晴らしく、ショットのほとんどが1~2テイクで追えることができた。彼女のパフォーマンスを彫刻のように標本箱に閉じ込めるような作業が何度か続いた。 制作と発表を繰り返す中で、身体と他のものの比較を試みたくなり、本や色の付いた日用品、コップ、金魚や蛇、昆虫も登場するシーンが付け加えられたバージョンが作られた。HDV版の《Living in the Box: Dimension》(2007-2013)の箱の構成はピート・モンドリアンのコンポジション・シリーズを参考にしたこともあって彩りが欲しくなったということだ。また最終的に箱を伊達麻衣子が大槌をもって、破壊するシーンが加えられて、2013年のバージョンが作られている。

  2007年当時のメモを見ると当時の時代の閉塞感や規制やシステムの確立と共に自由が奪われていく都市生活者の感覚を、箱と体のパーツに置き換えたと述べている。その当時でさえ既に日本のバブル経済崩壊後の不況が10年以上続いており、単純に政治・経済・文化的に閉じた状況が続いていたことを反映している。島国特有の保守的な側面を示しつつ、箱はまた記録メディアに閉じ込められる、死んだ情報としてのヴィデオ映像の際限なき再現という宿命も示している。(記録されたビデオテープは『再生』されて見ることができる)。

 区切られた箱は確かに近代が目指してきた効率化と合理性を象徴しており、その中に有機的な人間の身体がどのように配置され、のたうち回りながら生き残るのかを見ることができる。ヴィデオアートの文脈ではゲイリー・ヒルが筐体を外してブラウン管のみにした大小の画面に身体の部分を大写しにして並べた《Inasmuch As It Is Always Already Taking Place》(1990)を思い浮かべる人もいるかも知れない。ヒルが丸裸にされたCRTという機械と裸体を重ねたに対し、《Living in the Box》はもう少し身体をモノとして扱い、標本のように閉じ込めて蒐集する印象が強い。今年2月に亡くなったイ・オリョンに言わせるなら、前者は広がりを求めて身体がTVモニターという殻を破って出てきたように見えるのとは、対照的に後者の私の作品は空間的にも意識的にも縮みの志向を持っている 。

 2021年の《Knappe Beruerung》は一部にこの《Living in the Box》の撮影素材を使いつつ、基本的には中村麗の演奏姿を捉え、様々な形の箱の中に標本化するような試みとなった。ピアニストの労働である演奏姿を、いくつかのシークエンスに分解し、再構成する作品となった。コロナ禍で世界的に芸術家や音楽家の仕事がなくなったのに対し、ドイツのゲーテ・インスティテュートの「ヴァーチャル・パートナー・レジデンス」のプログラムによって三者の制作体制をとることができた。中村はフライブルクに、瀧と渡辺はそれぞれ日本の横浜と長野に居た為、2020年の暮れにオンラインの会議が持たれた。中村の主旨としては渡辺作曲作品に映像を付ける(その他中村のコラボレーション作品数作にヴィジュアルがつくというシリーズ)というものだった。

 渡辺は2007年の《Living in the Box: Specimen》を目黒美術館で見ており、それをテーマにした前出の作曲《Living in the Box II for piano》を作っており、その初演がZKMでの中村の演奏だった。こうしたプロセスを経て、今回は自作のヴィデオの実験が2007年にインスタレーション展示になり、その展示にヒントを得て2013年に現代音楽の作曲作品として演奏され、そしてまた2021年にその音楽作品にヴィデオをつけることになるという14年越しの円環として繋がった。コロナ禍で気分も落ち込んで、経済的にも厳しい生活を強いられていた自分にとって本当に嬉しく、アーティスト冥利につきるというか、コンセプトや形式が時を経て評価され、育まれていくことを改めて理解した。

 このような制作の背景もあって《Knappe Beruerung》は2021年に世界的起こったパンデミックの状況下で、感染症対策として自宅に閉じこもった体験を反映している。渡辺の作曲は、鍵盤に触れるか触れないかのぎりぎりの境界を扱ったもので、曲の時間軸の中で人間と楽器(インストゥルメント=装置)の接触について言及していた。COVID19は人と人との接触を断ち、空間的に隔離することを我々に強いた。感染症がもたらした分断は、加熱する情報化時代にぴったりでもともと情報へのアクセスの格差としてデジタル・ディバイドなる状況も生まれていた。合理化と効率性を探究するIT技術の根幹には、大型計算機としての黎明期のコンピューターのルーツに弾道計算や暗号解読、原爆開発のエネルギー試算、ユダヤ人排斥の為のパンチカードに至るまで、より早く演算・処理を行うことに起因している。作品ではそうした分断と効率性を冷静にみる視点から、合理性に捉われた身体が少しずつアンサンブルのように加算されて、最終的にはステージのようになり(この箱はベンサムのパノプティコンのように円柱の弧のように配置されている)ピアニストが陳列棚のような箱に囲まれていく様子と、終盤には落下するような旋律とともに箱が瓦解していく展開となっている。

  そして作品内の箱と箱の隙間には霧のような白い気体を流した。これは上述の「デジタル的な」区切りの外にアナログ的な世界、もっと有機的で人間中心のシステムがあることを示した1990年代の室井尚氏の構造主義批判の言説から着想を得ている。彼はその時点ですでに構造的な考えには限界があり、むしろ気象学のような構造を持つことなく複雑かつ自然モデルを参考にすることを薦めている。コロナのような大規模感染もまた室井氏の言うように、「デジタル的」には何ら読み解けないモデルの必要性を感じる機会となった。昨年地球温暖化の環境問題でノーベル賞を受賞した真鍋淑郎氏も、数理的なモデルだけではなく、物理的で複雑な自然モデルの総体として捉えて指摘したことが評価された。私たちの理性は今、過度な情報社会が形成する一種の閉じた空間からいかに人知を超えた自然的な存在をコントロールしようと理解するのではなく、むしろコントロールされていることに気づけるかどうかという観点で試されている。

絵コンテより
 コロナ禍の私たちの置かれた状況は、奇しくも2007年の拙作《Living in the Box: Dimension》の閉塞空間に閉じ込められた身体のようになった。そのような環境下の表現者三名が「ヴァーチャル・パートナー・レジデンス」のプログラムの形式を借りて、《Knappe Beruerung》は2021年1月―5月かけて行われた。まず渡辺の作曲を中村が演奏した仮の音声ファイルと楽譜を元に瀧が絵コンテを作成した。

 中村がドイツはフライブルクのラジオ局SWRのスタジオでピアノ演奏の録音を行った。その際筆者は現地に赴けなかったのでSWRの音響技師二人に詳細なカメラワークの指示を作り、演奏する中村を撮影してもらった。一見無謀な方法であったが音楽のプロモーション映像のようにスタジオ録音の後に、ミュージシャンが演奏の再演を収録するのではなくて、レコーディングそのものをドキュメントする意味で音声のレコーディングの場でカメラをまわしてもらった。楽曲は技巧が非常に難しいのでパート毎に録音され、なおかつ鍵盤に触れるか触れないかのぎりぎりの細かなニュアンスが必要だったので、この方法は非常に効果的だった。4KカメラとGoProを多用し、朝10時くらいから夕方まで撮影を行い、一部に別角度の映像を利用し、演奏の指と合わないテイクのものは時間調整を施した。ただし中村の演奏は毎回正確で、テイクは違えども演奏の尺は同じ、という恐るべき職人芸が記録されており、編集中何度も驚かされた。途中10分間でマイクスタンドや三脚が回りを囲んでいるグランドピアノをカメラマンが3週しなければならないカットもあり、恐らく自分でもうまく撮る自身のないカットもあったが、音声技師の二人はうまくこなしてくれた。

 送られてきた約50テイクに及ぶ総計1TBの動画ファイルからから、SWR側で作成した音声レコーディング版で採用された音を元に、OKテイクを選び出し絵コンテにあったシーンを足してゆく作業が一ヵ月ほど続いた。また箱の間にうっすら流れる霧の合成は一番地味で目立たない割に、非常に手間取った。舞台用のスモークマシンを利用したところ噴射の勢いがありすぎることから、一旦出たスモークをビニール袋に閉じ込め、箱と箱の間の空気の通り道を模したグリーンバックにアクリル板を置き、PC用のファンで排煙できるようにして霧がある程度の距離を通り過ぎるようにした上で、袋から少しずつスモークを押し出して調整して流した。まさに制御不能の気象学的で不定形な霧を何度も撮影した中から、いい流れのものを選んで合成している。

 前年度にコロナの給付金が入ったので4Kカメラと照明のセットと、使用PCのマザーボードと最新のSSDに取り換え、ソフトウェアも最新のクラウド版に更新できていた丁度のタイミングでこのコンディションでの初のプロダクションだった。スタジオレコーディングとしてパーツを作っては、音楽の時間軸に当て嵌めていく作業が2021年の4月~5月と続き、週の他の仕事をする2日を除いたほぼすべての時間をこの制作に充てることができた。

 

撮影素材が見れる-unplugged-
 元々のコンセプトの特異性もあって、単なる音楽プロモーション映像ではなく、実験的すぎる映像でもない、容易には形容できない映像になったのではないか。コロナ禍での制作だったことをうっすら仄めかしたかったため、よく目を凝らしてみると箱の中にこの期間よく見慣れたアイテムが写り込んでいる。また後日、撮影時の中村のパフォーマンスがよく確認できる映像を切り張りして、CG加工などがない《Knappe Beruerung -unplugged-》も制作した 。こちらは画面を格子状に20個に区切ってあり常に1つの空白のコマがあるため、COVID19を暗示した構成になっている。
 今回の制作により2007年の撮影テープをデジタル化することができた。これを元に要素をそぎ落とした4K版のディレクターズカットというべき《Living in the Box》(2007-2022)も制作され、ARTOSAKA2022のエクスパンデット部門として大阪の名村造船所跡地で展示された。この最終版で足掛け15年作り続けてきたシリーズに一旦の区切りがついたと考えている。

2020年6月10日水曜日

「叢書セミオトポス15」

日本記号学会編の書籍に寄稿しました!ポーランド出身でNY在住の現代アーティスト、クシシュトフ・ヴォディチコの2000年代の作品についての研究論文です。

「叢書セミオトポス15 食(メシ)の記号論 食は幻想か?」日本記号学会 編
ISBN 9784788516823
A5・216ページ 定価 本体2,700円+税

2020年3月5日木曜日

相内啓司『い(ま)え in betweenー存在とイマージュの境域ー』DVD

映像・造形作家 相内啓司さんの活動を記録した全集 『い(ま)え in betweenー存在とイマージュの境域ー』に寄稿しました。

 『い(ま)え in betweenー存在とイマージュの境域ー』
2枚組DVD/計213分 同梱冊子/A5判変形カラー80ページ

 DVD同梱される冊子には映像作品、インスタレーション、絵画、童話などの記録に加え、哲学者 小林康夫との対談、コンセプチュアルアーティスト・映像作家の飯村隆彦へのインタビュー、映画監督・映像批評家の波多野哲朗、ヴィデオアーティスト河合政之、ヴィデオアートセンター東京代表の瀧健太郎の書き下ろしレビューを収録。

注文・オフィシャルページはここから

2020年1月30日木曜日

反証的仮構空間―ヴィデオと建築

虚実の二重焼き付け
 2019年8月に筆者は東京・住吉の妙壽寺猿江別院という寺院のギャラリー空間の一角に、映像投影する作品《コーナーピース#4》を展示した。同シリーズは特別に注意を払われない部屋の隅や、何気ない場所に映像を映す試みとして、過去に2005年と2009年に3回の発表を行ってきた。

 その契機には1999年に筆者がヴィデオ・プロジェクターを平面のスクリーンではなく、部屋の角に映し、そこから凸凹の立体的なオブジェ上への映像投影を行う作品に発展したことにあった。そこには各作品のコンセプトとは別に、連作を通して映像が持つフレームからの脱却が念頭にある。
《コーナーピース#4》(2019)瀧健太郎
映像史を紐解くとアベル・ガンスが3面スクリーンで制作した『ナポレオン』(1927)をはじめ、画家がキャンバスサイズや比率を自由に選ぶように、映画作家やヴィデオアーティストがスクリーン形式に対する様々な模索をしている。戦後には拡張映画から万博のパビリオンでの試みに至るまで、あくなき映像のフレームへの挑戦として探究されている。

 1970年の大阪万博で「インターメディア」と称されたいくつかの試みの中には空間や立体物へのフィルム映写が数多く模索されていた。松本俊夫の《スペース・プロジェクション・アコ》(1970)では、女性の彫像に同じモデルを映したフィルム映像を投影しており、彫刻は単に映像を映し出すスクリーンとして、もはや画面とは呼べず、それ自体が記号として1つは「女性の彫像」ともう1つは「女性のイメージ」の二種類の記号が相互に重ね合わさった状態として提示された。

 この場合、映画の支持体であるスクリーンが映写と同時にその存在感を失う一般的な映写とスクリーンの関係にはなく、スクリーンが映写にも強く関わってくるという特異性がある。鑑賞者は彫刻と映像を個別に知覚するのではなく、それぞれが干渉し合う、二つの異なる媒体による記号がぶつかり合う「スーパーインポーズ(二重焼き付け)」と呼ぶべきモンタージュとして経験されていると考えられる。

 筆者もまたそうしたインターメディア的試みを追体験するかのように、ヴィデオ・プロジェクターの実験するなかで、画面比率の関係ない表現を空間上に展開できることを発見した。この時、被投影の対象となる空間に、映像ならではの「嘘」を重ね合わせ、現実と非現実の相まみえる不思議な感覚を生み出すことに興味を覚えた。

 その過程にはカメラ映像が「一点透視」で機能していることが重要となり、撮影時にカメラ-対象空間の位置を記録しておき、投影時にはその同軸上にプロジェクターを設置すると、撮影時の空間のキャプチャを、対象空間に映像で再現することができる。これによりトロンプイユ(騙し絵)のような効果が得られるが、同時に撮影時のレンズの前にペットボトルや定規などの物体を置くと、カメラではそれらしく映っていた映像が、同じ映像を同じ空間に再度投影すると、プロジェクターに近い位置の物体は透視図法の関係で拡大されるため(プロジェクターと壁面の間に遮るものがないため)、実際に壁面まで到達した映像は歪んだ像となる。

また撮影時に照明を動かすと画面内に配置された物体の影は動き、同じ映像を同空間に投影すると、画面外の照明は映されていないのに影だけ動くことになる。さらに画面内に鏡を持ち込むと投影時には存在しないカメラが、投影時には観客側にあるように見え、ディエゴ・ベラスケスの絵画《ラス・メニーナス》の王夫妻のような映り込みが可能となる。そのような撮影範囲の外、画面外の要素を含んだ虚像を、実空間に重ねることは、時間軸の違いを空間的な知覚へと置き換えるズレを引き起こす。これにより実空間への映像の再投影の試みは、映像が虚像であることをより際立たせる。

スケールとカットの問題
 フィルム映画の誕生以降、我々は様々な映像のルールを学習してきたと言える。カットやズームの撮影手法では、例えば画面内の小さな人物は、カメラと対象との距離として理解され、遠くにいる人物として知覚される。逆にアップ/ズームインされた人物のイメージは近接するものとして理解され、スクリーン内のイメージは、現実空間と切り離された物理法則の異なる場として捉えられてきた。
《コーナーピース#4》制作中の様子


 ところが前述のような空間に対する映像投影の場合、比較対象となる部屋の構造物(梁やダクト)があるため、映像のスケールに関するルールが無効となる。つまり画面内部だけで成立する従来型の映像言語に加え、場や建築が持ちうる空間言語というべき物理的存在感と混在されてしまう。空間言語とは言わば我々が生きる実空間と地続きでライフサイズに展開する事物の存在や出来事だ。

 また建築や空間は機械仕掛けの構造でもないかぎりそれ自体が運動することはなく、自然光や照明による環境の変化、経年による質的な変化など比較的ゆっくりした時間を想定されている。映像と空間のメディウムとしての差異を踏まえると、イメージが空間に投影され、重ねられる場合、両メディアはお互いに補完関係あるいは批評的な関係にあるのではないか。両者は打ち消しあうのではなく、常にどちらの様相も伺いながら知覚されている。「スーパーインポーズ(二重焼き付け)」と筆者が呼びたいのはそのことであり、物理空間に光学的な記号の介入があることで、別な意味を引き起こす可能性である。

 そこではカットなど映画的な編集方法で寸断されれば、たちまち前述のようなスクリーンとして認識され直すのかもしれないが、カットのない長回しで実空間と同寸の映像を映し続けた場合、映像のスケールは空間とより密接な関係を余儀なくされ、そこに二重焼き付けを引き起こす。2018年に新宿ゴールデン街のバーで行った《空調機の自撮り》はそのような実験を示す。この場合、空調機と本棚の上に20cm程に縮められた人物像が繰り返し映され、展示時間内にずっと周辺を動き回り続ける。

 それはエリック・サティの言う「家具の音楽」のように観客は映像内の小人のようなその存在を無視することもできる。同時に普段はエアコンのダクトや配線、本棚の留め具などのオブジェに焦点が当てられ、我々がそのようなささいな存在を無視していたことに気づかされる。黎明期に家具として家庭に入ってきた、情報メディアとしてのTVが、次第に大型化したスクリーンは壁面として空間の一部に、小型化したモバイル機器は携行品として環境の中に分散された。二重焼き付けの方法論とは胡散霧消したメディアを場に引き戻し検証することなのかも知れない。

二つのメディアの交差
 ポーランド出身の現代アーティスト、クシシュトフ・ヴォディチコはこの「二重焼き付け」の効果をうまく利用した社会参与的な試みをいくつも行ってきた。スライド映写機を使った〈パブリック・プロジェクション〉シリーズの初期にあたる1980年代に彼は、ワンポイントのイメージを付加することで建築物を擬人化させ、官僚制への批判を行う。2000年代には建築ではなくN.Y.の公園に置かれたリンカーン像に、イラク・アフガンの帰還兵の顔を映し出し、彫像に戦場の悲惨さと帰還後の社会復帰の困難さを語らせている。

 《エイブラハム・リンカーン 退役軍人プロジェクト》(2012)で、ヴォディチコはアメリカ合衆国が歩んだ戦史という歴史的文脈を下地に、被害者の声と顔のイメージを利用し、現在も相変わらず戦争状態であることを公共の場において、批判している。この場合、南北戦争時の軍人でもあったリンカーンの「物理的な彫像」と現代の「帰還兵の証言」という二つのドキュメンタリー的要素が掛け合わされている。初期のヴォディチコのスライド投影がベルリン・ダダに参加したジョン・ハートフィールドと比較されたように、この2000年代の彫像への退役軍人の投影もまた一種のモンタージュとして読むことができる。

 ハートフィールドはナチスやヒトラーなどの政治家のイメージと、既存の別なイメージを掛け合わる巧みなコラージュを、自らフォト・モンタージュと呼称し、雑誌やポスターでファシズムの台頭に警鐘を鳴らした。そこには見えざる脅威を視覚化することで、人々にリアリティと対峙し、向き合うことを促したと言える。ヴォディチコの彫刻とプロジェクションの組み合わせもまた、異なるメディアによるモンタージュとして、起こりつつある現在の戦争体験が、歴史的な時間と交差することによって現出するように構成されている。

 そもそもエイゼンシュテインやヴェルトフが提唱したモンタージュ理論とは、イメージの意味や記号どうしを時間軸上にぶつけることで新たな意味を生成することであった。つまり因習や既成の事実として観客が知っていることに、新しい感覚=リアリティを呼び覚ますことが目論まれたと考えることができる。その理論から、隠された日常の記号や意味を私たちが探ることは可能だろうか。

政治的空間の起動・無効化
 拙作《ダーク・ツーリズム》(2019)はドイツの写真家カイ・ヴィーデンホーファーが、シリア北部の街コバーネ(Kobane)の空爆後の様子を映した写真展が、「ベルリンの壁」のコンクリート壁面を使って展示していたところを、壁とその観客と共に再撮影したものだ。人物の背景には同時代に起きている戦場を拡大した模造があり、そこを人々は単に傍観的に通過するか、またはスペクタクルとしてスマホの写真に収めるかのどちらかで、日常空間とは違う一種の虚構としての観光業(ツーリズム)を受け入れていたようだ。

《ダークツーリズム》(2019)瀧健太郎
では「リアリティとは何か」と問われれば、至極難しい問題で、我々は誰しもが本物かどうか瞬時にわかる一方で、その境界をどのように知覚しているのかは知る由もない。しかしながら上記のベルリンの壁に貼られたシリアの戦場のように、ひと昔前の出来事や遠く離れた場所での惨状をモンタージュするような場において、ベルリンを訪問した観光客はまさに虚構と現実の相まみえるような空間に立っていたことがわかる。

 人は、自分が知覚している空間が果たして本物かどうか疑うだろうか。あるいは生きている時間を疑い、どこか「別様な」時間を希求することはあるだろうか。 例えば映画「マトリックス」(ウォシャウスキー兄弟監督、1999年)で主人公ネオは、本物の世界そっくりに出来ている虚構の世界「マトリックス」に疑いを抱くが、目覚めれば荒廃した核戦争後の崩れ去った現実の世界に直面した。

 SFの世界観だけでなく「トゥルーマン・ショー」(ピーター・ウィアー監督、1998年)では、主人公は子供のころからずっと「リアリティショー」番組としてオンエアされ続けており、自分の住む世界がテレビ番組のために作られたものとして描かれたことも共通している。

 これらに対し3D映画で話題となった「アバター」(ジャームズ・キャメロン監督、2009年)の主人公はVR技術を利用した異星人に似せた代理の体(アバター)を利用し、宇宙開拓のために異星人を土地に潜入し、立ち退きの交渉に入り、その星の資源をぶんどる話が前半にある。この場合は、主人公が彼を取り巻く退役軍人あることや半身が付随で車いすであるという現実から、異星人の部族の王子になるという逃避であり、自分にとっての虚構の世界、つまり他者の現実に優位性を置くという物語の構図があった。

 これらの物語が象徴するのは、隅々にわたるまで用意されたサーヴィス社会的な「偽物」か、何もない砂漠のような、それでも現実の場所という「本物」を取るのかという二者択一の問いだと言える。換言すれば、それは経済優先の勝敗で人間が疎外されるギャンブル型社会の「リアル」さか、道徳や人間中心型の原始社会への回帰という抹香臭い「リアル」を取るのかという究極の選択なのかも知れない。

 また一方でこれら虚実の彼岸とは、既に我々の日常生活に深くかかわっている。スマホ操作に熱中する「スマホ歩き」は時に駅のプラットフォームから転落する事故も引き起こしており、画面内の視覚的な情報空間と、現実の世界の知覚のズレから生じる現象だ。またゲーム内の視覚情報と現実の世界が組み合わさることに魅了された「ポケモンゴー」現象は、アニメキャラを日常空間に現出させた以上に、社会に適合することに能動的ではあなかったオタクや引きこもりを家の外に出させたことは興味不快。ひょっとしたら仮想空間での彼らのアクティヴさを現実空間で行動させるという、仮想空間の延長上に彼らはポケモンを捕まえに公園に出ているのかもと思わせる側面がある。

 イメージと空間に関する虚・実を巡る逆転現象が起こる場合、何かの力が働いた故であるという風に思えることもある。構造計算書を偽造した2005年のいわゆる姉歯事件や、2018年の建設向けの油圧機器などの免振・耐震のデータを改ざんしたKYBの件などは、表面上は機能する建築と見せかけて、実際はそれに満たない映画の書割かセットのように作られていた。建築や都市の整備は経済的な圧迫を受けコストを下げると、現実の空間であることを放棄し、ほとんど「仮想現実として現前」する。

 このような特異な事件だけではなく、昨今の建売住宅のほとんどがCADといわれる3DのCGソフトで組み上げられ、プラモデルのようにユニット化されたパーツの組み合わせで建設されていく一連のプロセスにも仮想現実が現実化していく一面を認めることができる。このようにイメージと空間の融合とは、「イメージ=虚像」・「空間=現前する場」という固定的な状況設定やどちらかに優位性を与えるよりむしろ、イメージと空間が虚と実の混在するような状況についての思考を促してくれる。

投影+空間の示唆するもの
 《コーナー・ピース》は平面的な視覚技術であるヴィデオが、空間と結びつきリアリティに関わろうとする試行と、空間や建築物の固定的で不動の印象が運動や光学的なアプローチへと非リアリティへの接近との交差としてみることができる。前述の虚構化、現実化の二項対立で考える場合、どちらかの優位性を説くのではなく、それらを行き来するような新しい感性あるいは知覚を喚起させることで、現在のイメージや空間にまつわる問題系を超克できるのではないかというのが筆者の主張だ。

 また筆者の路上でプロジェクターを持って走る試みもそのような、実在する自分の分身(投影)を、現実のビルに現出させることで、単に他人の所有する建築に登ることや、重力から解放されることだけではなく、他者としての自分と現実の自分を虚実の関係性の中で、第三の可能性を喚起させ、両者を同時に知覚する、あるいは行き来しながら知覚する一つの思考訓練なのである。

 
二つのメディアを象徴する筆者のドローイング

2005年以降に各地で行われているプロジェクション・マッピングを、ここまでの議論と照らし合わせると、概ね二つの課題を見ることができる。一つは様々な建築ファサードの投影において、綿密にデザインされたCG映像などにより映像が建築を従来の意味でのスクリーンとして単に投影の支持体として利用している点と、また建築側も映像を構造上に付加された光学的な装飾としてしか利用できていない事例が多いことだ。

 もう一つに被投影体となる建築や構築物の物理的な経年や歴史的な時間を、映像編集上の操作された時間が交差させるような根本的な実験と試行がなされていない点だ。「プロジェクション=投射」を心理学的に読解するなら、それは他者から自己に向けられる視線に自己の無意識を「投射」だ。そしてその「マッピング=位置付け」が可能であるなら、場や建築に潜在しつつも、何らかの抑圧や外圧によって照射できてないイメージが投影されるべきではないか。

 今のところ一般的にみられるプロジェクション・マッピングの事例では、建築や構造物を立体的なスクリーンとしてイメージ投影しているものの、平面に映していないこととの明確な差異が見いだせていない。だとすれば建築と映像、実在と虚像の要素を相互に引き出す《コーナーピース》のような試みはまだしばらく有効な実験なのではないだろうか。

 二重焼き付けとは異なる複数のメディアを同時に理解し、仮想空間が現実に入り混じるとき、実際には現実と認識している空間こそ仮想的で内実がないことや、ひいては都市のスペクタクル化により都市に中身があったのかという問いを喚起させる契機となり、同時に浮上してくる二つの問題を理解することがあってもいいだろう。それは人の現実か蝶の見ている夢なのか、どちらの優位性を認めず、同等に捉えた荘子の「胡蝶の夢」で示された逸話に似ている。細分化された目的論的な受容ではなく、統合されたものとして実践を促す実例なのだ。

2019年5月23日木曜日

K.ヴォディチコ研究論文の掲載

横浜国大都市イノベーション学府博士後期課程・都市イノベーション専攻から発行された「常盤台人間文化論叢」に研究論文「ヒロシマとフクシマ:現れの場としての〈顔〉─日本におけるクシシュトフ・ヴォディチコの受容」を掲載しました。

常盤台人間文化論叢 2019.3 vol.5

全文はこちらでご覧いただけます。
横浜国立大学学術情報リポジトリ