2023年4月19日水曜日

ぼくの耳カツ・ラジオ遍歴忘備録 その1

その1

そういえばラジオ少年だった
 コロナ禍で自宅軟禁状態が続く中で、「ミミカツ」という言葉を何度か聞いた。引きこもり生活で何かをしながらラジオなどを聴くことを指すようだが、そればかりではなくクラブハウスやモクリなどアプリを利用し、映像ではなく音声コンテンツやおしゃべりの聞き流しをすることも流行った。(そして廃れた)。ぼくの場合、ラジオを聴くことで曜日感覚が取り戻され、あるいは昨日のラジオ番組を追いかけて聞くことで、昨日はこんな日だったのかと確認する日々だった。(何にもしてないのに、もうこの番組の曜日か、という…)作品制作はある段階がくると単調な作業が続くので、ラジオを聞き流しながら、いやそれでも時に聞き入ってしまいながら、何とか乗り切ることができた。

 考えてみればぼくが大人になってラジオ、深夜番組を頻繁に聞くようになったのは、3.11東日本大震災の直後だったと思う。大地震と原発事故でうちの子供を外で遊ばせることも出来ず、奥さんの実家が福島県いわき市だったこともあり両親を避難させる/しないなど家族内にもストレスが溜まっていた時期だった。何かないかと何気にスマホで聴けるポッドキャスト番組で見つかったのがお笑い芸人バナナマンの深夜ラジオの一部で、それがきっかけでオンエアの本放送も聴くようになった。バナナマンは同世代ということもあり、単なるお笑いファンとは違って世の中への目線が似ているあたりに親近感を覚えたのもある。それからTBSラジオの深夜枠の他の曜日(おぎやはぎや爆笑問題)の番組も聴きはじめ、彼らのいい意味での無駄話が震災直後の暗い雰囲気を打ち消してくれた。

 そういえば、ぼくは高校のとき、当時祖父が購入していた8㎜ヴィデオ・カメラを借りたことをきっかけに、撮影なんかをはじめたヴィデオ少年だった。その前には誕生日の日に買ってもらった小型のラジカセにはまったラジオっ子だったんだ。小学5・6年で大阪は毎日放送MBSの深夜ラジオ「ヤングタウン」を聴いていた。それぞれの曜日が明石家さんま(月)、嘉門達夫(火)、あのねのね(水)、島田紳助(木:僕が聴いていた時期はのちにダウンタウン)、谷村新司とばんばひろふみ(金)、笑福亭鶴瓶(土)、西川のりお(日)と今思えば非常に多彩なラジオパーソナリティー陣だった。水曜のアシスタントにはデビューしたての渡部美里がおり、そのコンサートチケットを友人のお姉ちゃんが取るもいけなくなったとのことで、小6の僕が大阪城ホールにコンサートを観にいっている。各曜日のパーソナリティーが集まってヤンタンの野球大会というのもあった。(西川のりおがバイクのヘルメットを被って打席に立ったのを覚えている)

 どの家でもだいたいそうだと思うが、就寝時間になるとテレビは見せてもらえないので、寝たふりをして深夜ラジオをイヤホンで聴き、家族にばれない様に笑い声を押し殺しながら、最後は寝落ちする毎日だった。小学生にとってくだらないネタやちょっとHな話は次の日の友人たちとの話題となり、そのことが先生の耳にも入り、「お前らヤンタン聴いてるのか!」と子供のくせにという感じで笑われた記憶がある。毎晩深夜まで聞くことはできないので、そのうちラジカセの録音昨日で120分のカセットでちょうど2時間の番組を録音して後で聴いた。ぼくは中学校を入試で受けたので、今思えばいつそんな時間があったのか、それともそれは中学あがってからのことだったのか思い出せない。京都のKBSでは北野誠の「サイキック青年団」もあって、これは高校生くらいに聞いた覚えがある。また鶴瓶は新野しんと「ぬかるみの世界」も土曜日の深夜でチューニングをずらせば聴こえてきた。自分の小型ラジカセは、深夜になると電波が通りやすくなるのか、周波数を合わせるつまみをまわしてラジオ局に合わせようとすると、単調に記号だけを延々と話す声が聞こえてきた。今思えば海を隔てた北朝鮮からスパイへの暗号だったのだろうか。

ラジオから音楽の興味が
 我が家では朝はNHKのクラシック番組が、また土曜日学校帰ってくるとFMのコーセー火曜ベストテンがかかっていたし、日曜の昼には「日曜喫茶室」が流れていた。後で知るのだが、家にYMOの「ソリッドステイトサバイバー」のカセットがあったのだが、その理由を母に聞くと、その「日曜喫茶室」のゲストに建築家の黒川紀章が来て、彼が「テクノポリス」をリクエストしたのを聴いて、テープを買ったとのこと。その後僕が高校生でテクノ少年になったのはこのカセットの存在影響が大きく、ラジカセの前で寝そべってテープのレーベル横にある二つの回転軸がまわるのを見つめながら聴いたのを覚えている。自分の1980年代の少年時代の原風景の一つだと思う。NHKのラジオ・ドラマ「アドベンチャーロード」も何回か聞いた。大学受験で忙しいときに人気小説が読めなかったが、しばらくするとラジオ・ドラマ版で毎晩10時から15分ずつ聞くことができた。NHK-FMでは新作の映画紹介番組があって、そこでサントラをまるまる掛けてくれた。ラジオは偶発的な出会いの場を提供するメディアだと思う。ラジオから偶然流れてきた音楽でお気に入りのバンドの新譜が出たことがわかるし、それがきっかけで実家近くのレコード屋に買いに走った覚えもある。好きな映画はCDレンタル(品揃えが良かったのが関大前のレンタルCD屋)で借りてきてカセットテープにダビングして何度も聞いた。実家の阪急千里山駅の近くに1軒、御堂筋線の緑地公園駅の前にも1軒ずつレコード屋があった。(いずれも1990年代にはつぶれてしまった)小学生当時は音楽アルバムもカセットで買っていたし、CDになったのは中学生くらいではないか。「ゴーストバスターズ」と「スターウォーズ」のサウンドトラックがはじめて買ったCDだったと思う。隣駅の関大前には貸しレコード屋からレンタルCDになった店が大学のすぐ前にあって、よく借りにいった。自分の知らないロックやテクノポップやニューウェーブとともに映画好きだったのでサントラをよく借りていた。

上京してから
 受験でしばらく高校時代の最後の方はラジオは減らしていたのか、東京の大学に入ってからしばらくラジオを聴かなかったと思う。確か頑張って大阪方面に向けて毎日放送やKBS京都にチューニングを合わせてみたがビル街の鉄筋の建物だったのでほとんど雑音しか聞こえなかったのを記憶している。仕方なく実家から東京に持って行っていた関西のラジオを録音したカセットテープを繰り返し聴いていた。(それで関西人のアイデンティティーを保とうとしていたふしもある)大学も卒業間近には関東圏のカルチャーに染まりつつ、関東のFMで細野晴臣「デイジーワールド」や電気グルーヴ「ドリルキングアワー」ほかテイトウワや坂本龍一などがやっていたラジオをよく聴くようになっていた。当時のマウス・オン・マーズやアトムハートなど海外のテクノミュージシャンほか研究者のデビット・トゥープやヴァンダイク・パークスなどのルーツ・ミュージックの大家が来日した際にラジオに出ていたので世界のシーンと繋がる感じがわくわくした。ぼくはそのころ四谷に住んでいたので、お茶の水のレンタルCD屋でいろんな音楽を借りてきいた。1990年代の半ばのこと。

 2001年の9.11の際もラジオニュースで一報を聞いた。はじめはセスナ機くらいがビルに追突したのかな、ぐらいに第一印象を持ったのを覚えている。その後友人からの電話でテレビをつけて大惨事と知った。2002年から渡独し、ドイツのラジオも良く聞いた。一番聞いたのはクラシックラジオDEで、クラシックだけでなく映画のサウンドトラックや現代音楽もかけてくれる。ルドヴィコ・エウナウディはこのラジオ局で良くかかっていたのでCDアルバムも買った。10年くらいしてから日本でもよく流れるようになった。フランスのノヴァプラネットもよく聞いた。TNTやドクターロックイットの楽曲はこので局でよくかかっていたのをきっかけにCDアルバムを買った。インターネット・ラジオのいいところはオンエアの時だけでなく、曲名リストがあるところだ。僕が住んでいたカールスルーエにはマニアックなレコード屋が一軒あって、そこでアヴァンポップやクラウトロック、テクノなどの中古CDを良く漁った。検盤と試聴ができるので聴いていると、ドイツ人の店員のお兄さんが「君、日本人でしょ」と声を掛けてきた。確かクラスターかそのメンバー界隈のCDを聴いていたと思うが、何でもドイツのそのあたりの一番買っていくのが日本人で、「全部持って行っちゃって国内になくなるんだよね」とボヤいていた。知らんがな。好きなんやし。

今度はラジオ中年に
 それからラジオ熱は一時下火になっていたが、先に書いたように2011年の東日本大震災をきっかけにまたラジオを聞き始める。そのころになるとインターネットのポッド・キャストなどもはじまっていた。最近はラジコで日本中のラジオ番組が聞けるようになってまたラジオ熱が湧いてきた。ラジオを聴いていると、ラジオ・ユニバースともいうべき出演者のクロスオーバーと偶然出くわす瞬間がとにかく面白い。単にお笑い芸人が別な芸人の番組に予告なしに突撃するなど、場外乱闘や喧嘩みたいな思わぬ接点が広がっていくところが面白い。北野誠のラジオに大滝詠一が来たり、伊集院と電気グルーヴが繰り広げる無駄話、最近だと鶴瓶のラジオ番組に細野晴臣が初登場した。今起きていることや事件、亡くなった人に対する気持ちはどうなのか、例えばピエール瀧がスキャンダルでラジオ出演できなくなった日の赤江珠緒さん、その後の穴埋めをどうするかといった問題。アルコアンドピース酒井が静岡のラジオでアナウンサーのやばたんと繰り広げたほのぼのしたいちゃいちゃラジオが、ある日二人の結婚発表というお目出たい話題に繋がるなど。ジャンルや活動領域の違う人々が出会って話すのは、ネットやテレビの対談番組とは違って、敷居の低さとリラックスした感じがあって耳ここちがいい。

 仕事でやっているコンピューターの作業やヴィデオ編集やダビングなどの単純作業のお供にラジオはいい。スマートフォンに入れて移動時間に聞くこともできて本当に便利だ。バカバカしい話につい笑いそうになり、表情を押し殺して満員電車で聞くこともある。テレビ番組がコンプライアンス重視でどんどん面白くなく、また権力に従順になるなかで、ラジオはまだ健全さを保っている。時事問題では荻上チキのセッションを聴いて、社会問題の現状と情報整理をしている。朝のTBSのリスナーもコロナ対策の政府のずさんさに好き放題文句を言えている。MBSではたまに辺境ラジオが放送されており、内田樹らの歯に衣着せぬ意見が聞ける。テレビは切り取りで編集された言説が多いとすれば、ラジオはライヴでじっくりと意見が聞けるのがいい。現代はむしろラジオはテレビやネットで起こった出来事の検証や自由討議の場となっている。荻上の先の番組では政府広報や国会中継をライヴで視聴し、その検証を行うなどネット世界とは少し違う究極のオルタナティヴメディアとしてのラジオ像を知らしめる。

 ここ最近の動向で面白いのは僕が聴いていた1980年代のラジオ番組の復活だ。まず4年前だったかアリスや鶴瓶のラジオが復活した。KBSでは角田龍平のラジオで北野誠や竹内義和がたまにゲストに来て「サイキック青年団」が再現されている。北野はスキャンダルで芸能界から距離を取らざる得なかった後、名古屋のCBCラジオでほぼ毎日出て話をしている。MBSでよく出ているメッセンジャー相原が角田氏と同じくサイキッカー(サイキック青年団のリスナーの総称)だったということで、北野と3人でやった回も面白かった。CBCとMBSのラジオパーソナリティがKBSで、MBSの朝の帯番組「ありがとう浜村淳」の浜村さんは御年88歳で90歳までラジオを務めると言っているが、その後任はどうなるといったとても毎日放送では絶対できない話題で盛り上がっていた。テレビではとても流せないようなニッチで浅くて・深い話が聞けるのが今のラジオの良いところだと思う。

ぼくの耳カツ・ラジオ遍歴忘備録 その2につづく

Radio Lantern, 2000, 5min. Kentaro TAKI

2023年4月18日火曜日

ぼくの耳カツ・ラジオ遍歴忘備録 その2

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ラジオをテーマにした作品
  2000年に僕ははじめて自分のヴィデオ・カメラを買って、当時住んでいた千代田区の防災グッズとして配られていた発電機・懐中電灯付きのラジオを使ったパフォーマンスをした。FM・AM切り替え可能なそのラジオはスピーカー部分を手のひらですっぽり覆うことができ、ぴったり覆って音がこもるのと開放にするのを手で調整するとラジオ音声にワウ効果や、機器自体を振ったり、カメラに近づけたりすることでフランジャー効果がでることを知ったのでそのワンアイデアで作った。カメラを録画スタートして、パッとつけたラジオ局で流れたのがアンドレ・ギャニオン「めぐり合い」で、それをラジオ機器をカメラの前でいろいろ音が出にくくしたり、チューニングを変えたりして、5分間ライヴで僕なりのラジオの演奏をしてみた。これがカメラを買った後の初のヴィデオ作品となった。

 ラジオ好きが高じてpodcastでラジオ番組をやったこともあった。2006年に僕はTWS(トーキョーワンダーサイト)界隈で当時付き合いのあったアーティストらを通じて知り合ったIT系企業をスポンサーに毎回アーティストのインタビューを繰り広げる15分番組を作った。主な対談相手は代表を務めていたNPO法人ビデオアートセンター東京の企画でヴィデオアートの先駆者のインタビュー映像を録っていたのだが、そのカメラマンを務めていた大江直哉君と制作のプロセスとその様子と来日する海外アーティストのインタビューを行った。一部の復刻版がYoutubeでも聞けるようにしてある。これは自分としてもいろんな場所に行き、人と出会ったことの忘備録としてもすごくよかった。買ったばかりのMacBookairに入っていたガレージバンドでよく編集していたのを思い出す。

ラジオと映画をテーマに

 さらにラジオ好きが高じてラジオをテーマにしたインスタレーションも手掛けた。2017年の京都国際映画祭のアート部門での『ラジオ活動/活動写真 Radio Activities/ Motion Pictures』(2017)というインスタレーションを制作した。元淳風小学校の放送室を展示室としてパラモデル中野さんと分けて、彼がボーカルブースの部分で、僕は調整室を展示室にした。テーマをオーソン・ウェルズのラジオドラマ「宇宙戦争」(1938年)にして、当時フェイクニュースとして世間をパニックに陥れた出来事を元に制作をした。当時はこのラジオドラマ視聴者の反応は冒頭にラジオニュースを模したドラマ部分があったことから一部に過剰に驚いた人はいたのは確かだそうだ。ただし本来はラジオメディアの伝聞で起こったことを新聞など別なメディアが検証すべきところを、ラジオという新興メディアへの半ば当てつけのように新聞メディアが悪乗りしたことにより、大げさになった可能性が大きい。(結果としてウェルズはこれを期に映画へと進出している)




 ウェルズのラジオドラマから数えて80年後の現在、まさにフェイクニュースが横行するなか、情報とは何かを映画とラジオに関わった人物をモチーフにしたオブジェとドローイングを放送室に展示した。マイクの前に立つウェルズを模した人形、当時のドラマの音声と原作のHGウェルズにの挿絵にも登場する三本足の火星人の兵器が京都の街を攻めてくる様子も壁面に映し出した。このときの展覧会は映画祭の一環だったこともあり映画とラジオをテーマにしたコラージュ作品5点を放送室への通路に展示した。前述のラジオドラマをマイク一本の前で演じるオーソン・ウェルズの記録写真を元に作った《オーソン・ウェルズのラジオドラマ『宇宙戦争』(1938)》(2018)。そのほかにベトナム戦争のサイゴンの米軍基地内のラジオ番組の司会を務めた実在の空軍軍曹ラジオ放送のDJを主人公とした映画を題材に《『グッドモーニング・ベトナム』(1987)の放送中》(2018)を作った。戦争の愚かさを過激なジョークに乗せる主人公は、いつしか軍の統制下で上官の反感を買い、番組を降ろされてしまう。銃ではなくマイクを片手に軽妙な語りと音楽で戦うラジオDJの様子が印象的な一作だ。
《オーソン・ウェルズのラジオドラマ『宇宙戦争』》2018、コラージュ


 この展覧会の話を貰った時、台湾でのアーティスト・レジデンスのプログラムにいたので、台湾でラジオと映画の絡む話として、《「悲情城市」(1989)に映っていない放送局》を作った。映画の冒頭の玉音放送のシーンは台湾にとって戦争終結のみならず日本による占領終結を意味した。その後、物語は中国大陸の介入から独立する台湾の様子を描くが、この映画には物語の転機となるはずの「2.28事件」については政治的配慮からほとんど具体的な描写がない。闇たばこの売り子が役人に暴行を受けたことがラジオ局(現在の2.28記念館)の放送に乗り、台湾全土に独立の運動が広まっていく。映画ではトニー・レオン演じる主人公のがろうあ者で、起こったことが歴史的にも黙殺されている印象を与えている。
《『グッドモーニング・ベトナム』の放送中》2018、左
《「悲情城市」に映っていない放送局》2018、右


 もう一つのコラージュ作品《「ゴジラ」(1954)の放送塔倒壊シーン》は、「ゴジラ」第1作で原子爆弾によって誕生した怪獣の出現をラジオが茶の間に伝えるシーンを描いた。放送メディアの実況中継形式をかりて、架空の出来事を本物らしくみせる演出はウェルズの火星人と同じかも知れない。送信所の鉄塔に近づくゴジラを見上げ、汗だくの実況者が「いよいよ最後です。手を塔に掛けました。物凄い力です。いよいよ最後。さようなら皆さん。」と叫ぶ印象的なシーンを平面で表現した。
《「ゴジラ」の放送塔倒壊シーン》2018、左
《ジガ・ヴェルトフの『熱狂-ドンパス交響楽-』》2018、右


 最後のコラージュ作品は《ジガ・ヴェルトフの『熱狂-ドンパス交響楽-』(1931)》(2018)は「カメラを持った男」などソ連映画の礎を作ったヴェルトフへのオマージュ。ドンバス地方は今となっては良く知られたウクライナ東部で、ヴェルトフの映画冒頭では女性がラジオのヘッドフォンをつけてソ連型計画経済の熱狂ぶりを「音楽」のように聴くシーンからはじまる。ヴェルトフにとって初のトーキー作品となった本作は、音への執着と、革命の手段としての映画や音響として、耳のためのモンタージュ「ラジオ・グラース」の考えの最初の実践となった。ヴェルトフは映画眼(キノキ)や映画真実(キノプラウダ)を謳ったことで知られているが、彼がラジオ耳(ラジオウーホ)なるものを示したことは意外に知られていない。ラジオウーホとは何だったか。彼のいう映画眼が肉眼で見る世界と違って、カメラを覗くことで見る人の眼の覚醒を喚起させることを意味するとするなら、さしずめ音そのものではなく聴くことの覚醒だろう。映画眼=カメラに対し、普通ならマイクやオーディオの語を宛がうかに思えるが、フィルム映画と共に当時新たなメディアとしてでてきたラジオを使っているところが面白い。 というわけで意外にもラジオに関する作品を作っていることの忘備録として、ラジオとの関係から書いてみた。

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