Production Note: Corresponding Cityscape KentaroTAKI
2024年8月 瀧健太郎《応答する都市》は、2024年3月から6月まで開催された横浜トリエンナーレ2024の同時開催の展覧会「黄金町バザール2024」の企画として展示・実施された。街中の建物の複数の窓に、人物が等身大に映し出され、外にいる通行人や観客にむけて、手を振るなどのアピールを繰り返す作品だ。 その前作には 《再開発プールRedevelopment Pool》があり、これは前年に黄金町の作者のスタジオの前にあった一軒家が突然撤去され、それまでその家屋で塞がれていたスタジオの窓が、はじめて線路脇の道路から見えるようになったことから、思つきで制作されたものだった。
《応答する都市》(2024)瀧健太郎 撮影:笠木靖之 |
《再開発プール》は、スタジオのあるハツネテラス2階の東側の窓を、内側にトレーシングペーパーを前面に貼り、室内からプロジェクター一台を使用し、女性がプールを泳ぐ様子を繰り返し、映し出した。その投影は京急線の高架下の道を歩く歩行者から夕方16時半から21時半まで見ることができた。 使用した映像素材には、2020年の夏の終わりに、コンテンポラリー・ダンサーの飯森沙百合に出演してもらっていた、屋外プールで泳ぐ様を撮影したものがあり、パンデミックにより展示が無くなったため、未使用のまま放置してあった。そのことを思い出し、わずか3分ほどの映像をループするように制作して、窓に映し出したところ、室内を水で満たして水族館の魚のように飯森が泳いでいるように演出することができた。その映像を、一軒家の解体により更地になった11月の中旬にゲリラ的に投影しはじめた。
黄金町エリアマネジメント・センターのスタッフ、サイ・ジュンの目に留まり、12月の黄金町の企画展「影像人間」に参加作品として、その後2024年1月末まで流された。 ところが更地になった土地には、すぐに建設がはじまり、わずか一か月で4階建てのマンションが立ちはだかり、みるみるうちスタジオの窓は通りから見えなくなっていった。窓の投影は、最終的に完全に建物と仮囲いで覆い隠された。作者はこの流れに、街にひたひたと忍び寄る再開発の建設ラッシュの一環とみて、優雅に冬の夜に室内で泳ぐ女性のプールのシーンが刻々と覆い隠されてく一時的なインスタレーションができたと考えた。
2024年に黄金町エリアマネジメントセンターが横浜トリエンナーレと連動する形で開催される黄金町バザールでの企画募集をかけ、その公募に筆者は二つの企画を提案した。一方は2023年に同京急線の高架下で行った家電やIT機器の廃材をスクリーンにしたヴィデオ・オブジェの《Drowning Skull》バージョン2であり、もう一方がエリア内の窓を使って夜間に見ることができるこの《応答する都市》で、後者が選ばれた。
制作前のドローイング |
場所によって投影とモニター上映、窓に映像が映しにくい場所(高橋ビル)は人物の上半身のシルエットを木製の板で製作し、モーターの機構で物理的に手をするように作り、後ろからの照明で影が手を振り続けるようにした。 それぞれの窓には等身大の人物が映し出され、彼らが一人ずつ、窓によっては複数登場し、窓の外であるこちら側に手を振り、呼びかけるジェスチャーをし、人物によっては踊ったり、ボールを投げつけてくるなどのしぐさをしては、画面から去っていく。これらの登場人物は近隣に出演者を募り、3日間の撮影に16人が参加した。もともと撮影してあった飯森沙百合のフッテージを合わせて、黄金町を基点に活動するアーティスト、滞在中のアーティスト(ウクライナ、フィリピン、台湾、トルコ、韓国)、黄金町バザール2024のディレクター山野慎吾、地元住民あわせて17名がカメラの前で演じてくれた。
2月の下旬にこれらを撮影しながら、地権者と窓の映像作品の設置を交渉をすすめ、帰宅してから編集作業を行った。今回は窓がそれぞれ位置がや幅が違うため、撮影した素材を全身を映すもの、バストショット、ウェストショットなどすべて演出と編集のことなる11種類の映像を編集する必要があった。幼稚園はフルサイズで映せる窓が5枚あったが、プロジェクターの引きの距離が取れなかったため、中央3枚に収まるように投影した。キリスト教系の幼稚園であったためこの3枚の映像の構成は、偶然にも祭壇画のようになった。
撮影セットの様子 |
機器の設置図 |
今回、ギャラリーや展示スペースではない作品を民家や教育機関、会社スペースに設置するため、スタッフが電源のオン・オフをするわけにはいかず、すべてをタイマーによって電源の制御をおこなった。日没を待たないと映像が太陽光に負けて見えづらいので、展示館開始時は17:30に設定していたが、終了間際にはその一時間後でもまだ薄く見えにくくなっていた。それでも曇りの日などは17:30から見えており、屋外展示が天候に左右されること改めて確認することとなった。陽が沈みかけ、薄暗くなりつつ、それでも街の建物や構造が見える段階での窓への投影に登場する人物群が組み合わさり、その点が作者も気に入っている。完全に真っ暗になると、それは単なるスクリーンやディスプレイにみえてしまうが、日没の過程で、街と映像が一体化して映えた。
そのような夕暮れ時の時間に、《応答する都市》では展示期間中、関係者から手を振っている映像に対して、観客が手を振り返していたと話してくれたことがあった。それで作者も何度か物陰から観客を眺めていたところ、本当に歯を振り返す人がいて驚いた。 この構成は伝統的なヴィデオ作品の一つである、ドイツのアーティスト、ヨッヘン・ゲルツ《限界まで叫ぶ Rufen bis zur Erschöpfung 》 (1972)を参考にしている。同作では、作者ゲルツが丘の上にたち、カメラ(視聴者)に向かって、20分間、「ハーロー」と呼び掛けてくる。最終的には声は枯れるほどにどに苦しそうにこちらに叫んで呼びかけるが、残念ながら私がこの作品を見た2000年代初頭にすでに、30年の歳月が経っており、画面に対して返答することはできなかった。制作当時すら録画された映像に返答することはできない。 この作品のパフォーマンスの記録が一方通行のコミュニケーションを図ろうとする部分を、《応答する都市》では再度問う形でトレースしてみた。声こそ出ないが、窓の中の人物たちは皆、窓の外の聴衆に対して、呼びかけ、手を振る様子をずっと見せていく。広告を流すディスプレイやスクリーンと違って、窓に映されていることから、観客や路上の通行人は看板をみるように反応しなかった。しかし疑似的にその建物室内に本当に人が存在するように見えた本作では、路上の鑑賞者の一部が反射的に手を振り返したと思われる。コンセプトは異なるのだろうが、ゲルツが果たせなかった画面内部からのアピールは、およそ50年後に乗り越えられたのではないか。テレプレゼンスのようなこうした人物の疑似的な存在感の演出はこのところの拙作の共通したテーマでもある。
ゲルツのように初期のヴィデオ作家たちが疑問視した画面の「内/外」の問題は、いまや虚像と実空間や、フェイクとリアルのはざまの問題に発展してきている。
観客はマップを元に鑑賞することができた。 |
《応答する都市》の約3か月の展示の期間は、作者自身による都市への応答行為として、パフォーマンス・ピースの《モバイル・プロジェクション》を2回行うことができた。窓の投影と合わせて、上記のような問題を、一般的に開きながら考えていただく機会になったと思う。 期間が長かったこともあり、《応答する都市》は、作者自身も展示後半にはどこに設置したかを気にも留めなくなっており、夕方にスタジオで作業を終えて帰路につく際に、路地を歩きながらふと目をあげたビルの窓に、こちらに手を振る人たちがいることに思わず出くわし、作者自身が驚くことが何度かあった。(忘れっぽいだけかも知れないが…)街中で偶発的に出会うアートのこのような仕組みは、今後もしばらく有効であると考えている。
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