制作ノート
《モバイル・プロジェクション考》または瀧健太郎の分身がビルを駆け上った件
photo by Haruka Hirano, YIN Yichen |
2024 年 5 月と 6 月に横浜黄金町で《モバイル・プロジェクション》のパフォーマンスを行った。このパフォーマンスはバッテリーパックを背負い、プロジェクターを考に持ちながら、作者自身の記録映像による等身大イメージを、街路の建物や構造物に投影していくものだ。 その最初のパフォーマンスは、2015 年の「オルピスト東京」関連イベントとして神楽坂周辺で行われた。飯田橋のスペース「文明」から出発し、アンスティチュ・フランセ東京までを 30 分程度歩きながら行われた。2 回目は同年に京都の MORIYUGALLERY のグループ展「VIDEOS」の初日にギャラリー周辺の住宅地で行った。その後 3 回目を渋谷で開催された 「Interdisciplinary Art Festival Tokyo 15/16」(インターディシプリナリー・アート・フェスティバル・トウキョウ)で、4 回目をインドネシアのスラバヤで、5 回目をフランスのクレルモン・フェランの VIDEOFORMS2016 フェスティバル内で、6 回目を2018年の台湾の国際芸術家村で、その後美術大学でのデモンストレーションを経て、7回目を式根島で開催された「AICOT」(2019)で上演されてきた。
初回の 3 回以外は、投影映像に作者以外の人物が登場していた。今回の横浜では原点に返って、再び作者だけが 30 分間壁をよじ登り、飛びあがり、駆け抜けていく様子を投影した。
神楽坂で行われた《Come and Go》(2015)左・渋谷で行われた《V-climbing Highl Lines》(2015)右 |
このパフォーマンスはもともと、即興的で動的な映像のライヴ・パフォーマンスができないかと考えていたことにはじまる。実験映画の先達には、フィルム映写機を手に取って動きまわり、壁面や観客にイメージを映し出した飯村隆彦の《ホワイト・カリグラフィー》(1967) をはじめとしたフィルム・パフォーマンスや、屋外環境に映写機を持ちだした山中信夫の《川を写したフィルムを川に映す》(1971)があり、筆者はそれらに影響を受けた。 従来の室内のフィルムやヴィデオパフォーマンスでは、電源や映像の入力のケーブルに動きが制限されてしまうことが課題であった。それに対し映写機を手に持って、より自由に動きまわる表現は可能なのか、と筆者は常日頃思っていた。
そんな折に、高性能の持ち運び可能なバッテリーが丁度発売された。それは 3.11 東日本大震災の避難を受けて、市販された。このモバイル・バッテリー装置は、オートバイなどに使われてわれているバッテリーが内蔵されており、蓄電した電力をインバータで変圧させて 100V 出力を可能とし、避難時のパソコンやスマホの充電用に比較的安価に入手可能となった。これを利用すれば電力 20W の卓上のヴィデオ・プロジェクターが 30-40 分動くことがわかり、さっそくそれを利用したモバイル・プロジェクションのアイデアを考案したのだった。
モバイル・プロジェクションの装置 |
神楽坂での初回のパフォーマンスでは、映像素材には上または横に駆け出すような演技をした 3 分程度の映像を作成して、ラップ・トップ・コンピューターでループ再生にした。事前予告を知って集合場所に集まった観客十数名と、また路上でこのパフォーマンスを見ることになる偶然の観衆も伴って、まったくリハーサルなしにビルや店舗の壁面に瀧が動きまわる映像を映しながら、時に路上を歩く人の背中にも映し出すなどして 30 分間歩いた。
後に分かったことだが、オランダやベルギーからのヨーロッパ製の鉄製の幻灯機が江戸時代に入ってきたとき、国内ではフロと呼ばれる木製の幻灯機を制作し、夜間の投影劇の興行を行った「江戸写し絵」が生まれたという。その発祥の地が神楽坂だった。スライド部分の仕掛けと軽量化によって江戸写し絵は、西洋のファンタスマゴリア(幻灯機のショー)とは違う独自の演目に発展したという。筆者のパフォーマンスもまた軽量化と小型化したバッテリーとプロジェクターによって機動力を得ることができ、そのことが人物を建物などの壁面に映していくというアイデアに繋がり、その第一回目のモバイル・プロジェクションが同地神楽坂で行ったことは偶然ながら何か運命めいたものを感じた。
同年渋谷の場合は、コンテンポラリー・ダンサーの飯森沙百合とのコラボレーションで、 UPLINK ファクトリー劇場内の丸いスクリーン前に飯森がいるのを固定カメラで撮影し、観客の前から映写技師の筆者がプロジェクターと共に会場を抜け出し、劇場内の飯森のパフォーマンスを中継器を通じて渋谷の街路の壁に映し投影している様子を、更に撮影して、劇場内のすくスクリーンに中継した。いささか複雑な構造だが、劇場内の観客は映画を見るようにして劇場街外の様子を見て、路上の鑑賞者は劇場内の飯森の動きを街路の壁面や店舗のショーウィンドウ内に侵食している様子を見ることができ、二つの異なった質の鑑賞体験を作り出した。
同パフォーマンスの京都版(左)・スラバヤ(中)・式根島(右) |
京都とインドネシアのスラバヤを除いて、クレルモン・フェランと台北と式根島はいずれも作者以外のパフォーマーの映像を混交させて様々な人が建物の壁面をよじのぼるようなシーンを見せた。(クレルモン・フェランでは現地でモバイル・バッテリーを用意できなかったので、自動車と共に移動し、車のバッテリーからケーブルを引いて行った。)
今回の横浜では映像素材はループ再生ではなく、天井に仕掛けたカメラの下で床の上で壁登りや横に動くなどしたパフォーマンス時間と同じ実時間演じ続けた 30 分の素材を用意した。壁面を上る作者が途中で疲れて休んでいるシーンがあるのがあるのは、撮影時に実際に動いたことで疲れて休んでいるのだ。
このモバイル・プロジェクションのパフォーマンスは身体のイメージと都市空間を混交させることだった。現場で作者がプロジェクターとバッテリーを背負って物理空間を移動すると同時に、投影映像内の作者のボディダブル(分身)もまた普段は登れないような高所や、物理的に侵入不可能な空間への介入など超人的な様々な動きを見せながら、肉体的に疲れていくのが面白いと考えた。登場人物の分身というのは映画誕生以来、映像の永遠のテーマだと言える。それ以前の幻灯機の時代にファンタスマゴリアの時代においても、人々はいるはずのない有名人が登場さ、あるいは死者を蘇らせる交霊ショーに熱狂したという。将来的には作者没後も誰かがどこかの街に瀧健太郎がビルを上る様子を投影することもできる。このメディア社会では分身のほうが本人より長生きする。
初期の神楽坂の時からそうだったが、横浜でもこのパフォーマンスの一番の観客は子供たちだった。彼らは作者にくっついて最前線で映し出された分身がどこを上っていくのか、歓喜の声を上げながら見てくれた。誰かがこのパフォーマンスをハーメルンの笛吹男と言ってくれたが、まさに観客はどこに連れていかれるのかを知らず、作者の映し出す分身を追いかけえて当てもなく歩く様子は、歩笛吹男が音楽に陶酔させるのと似ている。
クレルモン・フェランの路上で行ったパフォーマンス(photo: La Montagne) |
パフォーマンス中の作者は多くのことを行っている。投影イメージ・サイズをプロジェクターの絞りで調節しながら、フォーカスを合わせ、どこに映すか、次はどこに移動させるか、を建物の構造や色を見極めながら吟味しなければならない。事前録画された映像素材には上下があって、画面上に頭がくる構図で記録されている。その映像をうまく、例えば柱や京急線の高架下の天井、仮囲いをのぼっているようっているように、また下っているようにするためには、プロジェクター自体の角度を変え、傾けて、時に 180 度物理的に投影機をスムースに逆さまに持ち替えて映す必要がある。つねに自分の分身がそこにいるように、あたかも彼に意思があって、街の様々な場所を動き回っているように投影機の操演に工夫した。また動画素材には撮影時に演技した際の息切れなどの音が入っている。(指向性スピーカーで壁に反射して、観客に聞こえるようにした)撮影時には自分がどこに投影されているかわからないが、投影時には更に場所や構造物がまわりにあるため、うまく登れずに落ちるように映写機を動かした際などは、叫び声などを現場で加えるなどした。
普段は誰もこんな場所にはまったく意識を払わないような場所に分身を動かして投影し、それにより人々が顔を上げそこをじっくりと見上げるのは、このパフォーマンスの最も可笑しな瞬間でもある。鉄道の高架のコンクリート部分、室外機やパイプ、電柱や交通や建設用の設備とそこに振られた番号など、我々の住む都市には思いがけない偶然のオブジェや構造物が多々ある。日頃歩いているときには眼に見えてこないそうしたオブジェや構造物に、ひとたび筆者の分身が映し出されることで、人々は投影の人物像と都市空間の不可視のオブジェを同時に見ることになる。この時、作者の意識は、投影されている分身の意図を模擬的に表しながら、映されている壁や建物と一体化している感覚に陥る。つまり作者がプロジェクター機器を通じて、操り人形のように投影像の分身をガイドしているのか、あるいは被投影体である都市の表面が作者をコントロールしているのか、主従の明確な差異のない一種のゲーム的な関係になっている。
またこのパフォーマンスでは、先に述べたように実験映画や構造映画の先達たちが行っていた映画・映像のフレームからの脱却を、電子映像を使って同じようにフレームやスクリーン、画角の問題からどう逸脱できるかというテーマが出発点となっていた。映画は元来暗い部屋が必要であるし、ヴィデオ以降の映像も基本的には室内のディスプレイで展開してきた。かたやスマホやデジタルサイネージといった現代的な技術やツールは、今では暗闇を必要とせず街路など外でも使われている。しかしながら我々は基本的に四角い平面画面からは抜け出せておらず、移動して室内から屋外に映像を持ち出すことが可能になっても、画面に触れるくらい程度にしかフレームの呪縛から抜け出せていないのは確かだ。新たに「外に出てなお枠に閉じこもっている」状態に突入している。
そのようなメディアと場の制約の問題とあわせて、パンデミックの間の数年間、自宅軟禁状態で閉じこもらざるを得なかった状況もパフォーマンスのアイデアに関係している。その後状況収束と共に、ネットの仮想空間に縛られて、常にケーブルに繋がれていた状況から解放され、自由にリアルな公共空間に飛び出したいという欲求が生まれて、再度のこのパフォーマンスへと作者を駆り立てた。自分のアイデンティティを屋外で、あるいは都市の要素を目の前にしてどう対峙し、そこで自身をさらけ出すことができるのかという問に応えるためのアクションだった。
このパフォーマンスは作者にとって、これまでのシングルチャンネルの作品とは異なる位相の、ヴィデオアートのアンプラグドで即興的なピースだと考えている。 横浜では初回は 30 名程度、二回目は 60 名以上の観客がいた。パフォーマンス中、観客も自由に好きな場所で、投影の分身をみてもいいし、あくせくしている目の前の物理的な作者自身をみてもいい。途中で他の展示や作品を見に行くことも可能で、路上観察に心を奪われたのなら置いてけぼりになるのもまた一興だ。 実際それほど多くの人がみにくると思っていなかったが、KAMC のスタッフが路上での安全の配慮のため観客に車道にはみ出さないように、あるいは他の交通の妨げないように案内してくれて助かった。観客もまた映画館で座っての鑑賞や美術館での順路を歩きながらの鑑賞ではなく、30 分間パフォーマーを追いかけて(あるいは途中で見るのを止めたひとも)、同様に身体的な運動と空間移動をパフォーマーと共有する。あるいは路上で偶然出くわした鑑賞者は、即座にスマートフォンを撮って、日常空間に突然現れた不思議な光景の理解に努めようとしていた。
初の神楽坂のモバイル・パフォーマンスの時点では 42 歳だった作者は、今回横浜での際に 50 歳になっていた。30 分間の路上の客前の実演よりも、同じ 30 分間グリーンバックの上で独りで撮影しているほうが身体的に過酷だった。だがまだまだ体が動くうちはこのパフォーマンスをやっていきたいと考えている。
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