横浜国大都市イノベーション学府博士後期課程・都市イノベーション専攻から発行された「常盤台人間文化論叢」に研究論文「ヒロシマとフクシマ:現れの場としての〈顔〉─日本におけるクシシュトフ・ヴォディチコの受容」を掲載しました。
常盤台人間文化論叢 2019.3 vol.5
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(横浜国立大学学術情報リポジトリ)
2019年5月23日木曜日
2019年5月20日月曜日
《トレジャー・ハンター》制作ノート
《トレジャー・ハンター》制作ノート
歴史的空間という舞台装置
屋外のマルチ・プロジェクションを利用したインスタレーション《トレジャー・ハンターズ Treasure Hunters》(台湾語表記:尋寶獵人)は、台北國際芸術家村トレジャー・ヒルの建築外壁の為に制作され、2019年3月30日から5月5日までの夜間に映像の投影がおこなわれた。筆者はこの半年前に台北國際芸術家村が運営するもう1つの台北中央駅近くに位置するアーティスト・インレジデンスに、2018年7月から3か月滞在した。その際には分断する世界の壁をテーマに、上下左右の物理的に間仕切りで分けられた複数の人物の営みを映像投影した作品《…的境界 Borders on…》(2018)を発表している。その展示を観た台湾國際芸術家村のディレクター、キャサリン・リー(李暁雯)から帰国前に光節で作品を展示しないかとの話を頂き、9月末にトレジャー・ヒルのロケーション探しを行った。
トレジャー・ヒルは台北市西南部を流れる新店渓のほとりに位置し、第二次世界大戦後の1940年代後半に大陸から移り住んだ国民党系の退役軍人らが不法占拠した際に建てられた築70年を越える集落で、それ以前の1895年から50年続いた日本による統治時代には、軍部が水源を守る為に拠点を置いた場所でもあった。しかし経年による老朽化もあり台北市は一旦この地区の再開発も考えたが、建築的に意義があるとのことで2010年に芸術家村として維持・管理して利用されることになったという。 丘陵地帯に南北に長細く続く地形に、ひしめき合うように建てられたコンクリート造りの住居には、セルフビルドを繰り返したと思われる複雑な形状や突飛な位置の玄関や窓などがあり、細い路地や階段を通り抜けて辿りつく為、散策するだけでも非常に興味深い場所だ。
何を映し出すか
筆者の興味としては、2010年代から屋外でのヴィデオ・プロジェクターを利用したインスタレーションを制作してきたこともあり、このトレジャー・ヒルの建築ファサードを利用し、場と結びついた人々の営為を何らかの形で映し出せないかということにあった。それは通常の壁面投影やスクリーンへの上演ではなく、70年の歴史の上で形成されてきた凸凹の住居の改築や増築の痕跡を利用することで、経年や歴史的背景を作品に取り込み、あるいは自分の作品を現実的な空間と融合させるような試みを想定していた。
会場視察の際に、このような考えを一番実現できそうだと考えたのが、メインの通りから細道を入ったところにある、トレジャー・ヒル内のクロスプラザ(十字広場)と呼ばれる一角であった。そこは不揃いな3階建ての建物で、2階に芸術家村の事務所と、2-3階には芸術家のスタジオ兼住居と、アニメーショの制作スタジオとして現在使われている。(正面2つの壁面には、裏側に入口のある2階の事務所からすると地階があるはずだが、入口も見当たらず、内側に何があるか不明なまま…)
この展示の場所だけを半年前に決める形となって帰国の途に就き、2018年の年内に計画を構想していった。展覧会全体のテーマが”Land of Happiness”(幸福の世界)とのことだったので、歴史的な背景と、現代の中国覇権を巡る台湾の地政学的な位置づけや、水を始めとした環境資源を収奪しようとするグローバル企業の思惑も考慮し、「幸福」を求めて人物が3階建ての建物の壁面を登っていくシンプルなものを考案した。
屋外でのこのようなインスタレーションでは、提示されるイメージだけでは、物語性や複雑なメッセージを込めることが難しい。というのも観客はもちろん展覧会の作品分布が示された地図やカタログを片手に、この作品を目指してくる者だけでなく、その多くはトレジャー・ヒルの散策しながら、ふとこの空間に辿り着く観光客も想定され、展示がそこにあるとは思っていない偶然の鑑賞者が考えられるからだ。彼らはそこに長くとどまることもあれば、ほんの数秒で通り過ぎてしまう場合もある。作品はいずれの場合の人々にも向けられるべきで、同じ映像でも映画のように起承転結や物語性を入れると途中の場面に遭遇した人には前後関係がわからず、ひと区切りが終わるまで「待つ」という鑑賞体験に1つの煩わしさを与えてしまう可能性がある。
そのような対応策として、筆者は横浜の黄金町で行った《invitation#1/#2》で3か所の投影が京急線の高架下に展開した際には、7分のダンサーの動きを繰り返し映し出した。等身大に見えるように身体を橋脚に映し出されたので、これは映画的な作品というより、常に上演されるパフォーマンスに近く、鑑賞者と作品が同じ現場にあるようにプロセニアムのない場面設定がなされている。これにより鑑賞者が物語性を時間をかけて読み取るのではなく、空間を瞬時に知覚し、場とイメージの関係性を直観的に感じてもらえるような効果が意図されている。人物のイメージを場へ焼き込み(スーパーインポーズ)させていることをみせたかった。
とはいうもののこの形式にはまったく物語性がないかと言えば、そうではない。登場人物たちは彼ら独自の物語として、数分の間でも何かを実行し、一区切りの動きを終えることになる。
台北での《トレジャー・ハンター》の場合は、20名ほどの人物を準備すれば、少しずつ人数が入れ替わっても、常に数人が3F建ての建物の6面を埋め尽くすことができるだろうと踏んで、構想された。登場人物が壁を前に演技し、常にいろんな場所で出来事を起こるような群像劇として、観客は1人の人物の動きを追ってもいいし、全体を動きのアンサンブルとして見てもいい、という大よその目論見が出来上がった。
現地との共同作業
制作には撮影と設営の2回台湾に行く必要があるという筆者の要望に対し、主催者も応じてくれ、年明けからEメールを通じて綿密なやりとりが行われた。まずは登場するボランティア・アクターたちの募集が芸術家村のサイトやメーリングリストを通じて呼びかけられ、最終的に10代から40代までの男女22名の地元の候補者が名乗りを挙げてくれた。筆者は2月の半ばに再度台北を訪れ、朝10時から18時まで4日間に渡り撮影を行った。スタジオ内にスロープ状と垂直型の2つの壁面セットを用意し、それぞれグリーンバックと呼ばれる映像合成用に使われる布を設置した。
インターネットを通じて応募してくれた22名のパフォーマーは、それぞれ1時間半くらいの時間で動きを撮影した。集まったボランティア・アクターには、それぞれ「目の前の壁があるとき、どのように上るか」、「幸福を妨げるものにどう対処するか」、「あなたの宝物は何か」などの質問を投げかけ、彼らのアイデアを反映させた動きを30秒程度のシーンで演じてもらった。
彼らの想像力を掻き立てるため、実際の場所を見せて、最上階をゴールと考えるとどこからどう上っていくかを相談し、各壁面ごとの動き・次のカットへの繋がりなどを考慮しながら進めていった。更に、ただ上り詰める成功パターンだけでなく、敵の攻撃やあるいは複雑な建築構造を登り切れずに落ちるパターンも撮影した。それぞれ自分なら、こう登っていくなど即座に答えてくれ、また宝物として答えてくれたのも、金銭的なものから、家族といったものまでいろんなパターンを引き出すことができたので多様な展開ができることになった。彼らのほとんど英語ができたので(中には流ちょうな日本語を話す人も)、理解がはやく、即興的に面白い動きを考えて演じてくれたので、全員分の撮影カットを使うことに決めた。
この作品にはトレジャー・ヒルの建築の特異な形状の壁面を登っていくアイデアから、任天堂による「マリオブラザーズ」「ドンキーコング」といった初期のTVゲームの固定空間のステージを登って攻略する要素を思い描いていた。その為インタラクティヴ性はないものの、プレイヤーを妨げる象徴的な「敵」キャラクターが必要であり、当初はそれに歴史的な背景から日本兵や中国軍の兵士を仄めかすシルエットを映そうと考えていた。ちょうど2階にあたる芸術家村オフィス部分には広い窓がリノベーションによって取り付けられていたことと、この窓に向かって室内で打合せ用に使うヴィデオ・プロジェクターが備わっていたため、これを使わない手はないと考えた。既に屋外用に5台のプロジェクターを必要としておりそれ以上機材を増やすことができず、このオフィス内機材も稼働させることにした。
主催者側から日本兵のキャラクターなどは、やや具体的すぎるかも知れないというので、アニメーション表現を使って、現代人の幸福を妨げそうな5つの敵キャラクターをシルエットで交互に映し出した。設定したキャラクターはそれぞれ死を意味する「骸骨」、男性中心主義と抑圧を示す「筋肉男」、不寛容で一元的な官僚制を示す「スーツの男」、因習とオカルト的な「魔女」と、A.I.など近い将来に人の職場を脅かすかも知れない「ロボット」が、彼らに因んだ道具、毒りんごや歯車などを、登場人物たちに投げつけるようにした。
2月の撮影から帰国後さっそく編集作業に入るも、ボランティア・アクターたちの撮影カットは1人15~20カットあり、全体で400カットにも及んだ。その中から成功パターンと失敗パターンの2種類を選択し、人物だけを切り抜き、背景が黒になるように操作していく。また服の色が背景に沈んでしまう場合は色合いや輝度を調節していった。
展示会場で観客は実際9分弱の映像の繰り返しを体験するのだが、実際は6台のプロジェクターにそれぞれ9分ずつあるので、約1時間分の映像素材を作らねばならない。6つの時間軸がパラレルに展開するので、スコアのようなものを作ってはじめたが、作業の最後には、全体のタイムラインをコンピューターの画面上で一括して俯瞰できるようにし、何が起こっているかの相関をみながら、映像のカットを抜き差ししていった。この作業は映像作品を作るというよりは、何か舞台の演出かあるいはオーケストラの指揮をするような感覚に近かった。朝8時くらいから作業をはじめ、夜10時くらいまで続け、それでも画像処理に時間がかかり、コンピューター2台を駆使して最終的に1ヵ月ほどを要した。
壁を巡るゲームの構築
3月の半ばに設営作業のため再び台北を訪れた。設営業者にはプロジェクターの天吊り用の台と屋上に設置するプロジェクターの風雨除けの屋根部分だけをお願いし、それ以外の作業は即興的にやる必要があるため、主宰側のインターンやスタッフと筆者とで制作していった。展示期間の1ヵ月間、屋外での投影を行う為、機材を風雨から守らなくてはならず、また音声の為のケーブルや電源についても考えなくてはならない。スピーカーはタッパーと撥水生地を利用し、簡易の防水スピーカーを5つ制作し、それぞれの壁面近くに目立たぬように置いた。3階部分の壁面の映す映像は、手前の2階建てのスタジオの屋上部分に、プラスティックケースを利用した全天候のプロジェクターのケースを作成した。前者のパーツは光華国際電子廣場という台北の秋葉原のような場所で細かな電子パーツやネジ類に至るまで現地調達して制作した。
黒バックの人物像を壁面にちょうど等身大になるように映し出され、観客にどこからが映像のフレームなのかが一見してわからないようにしている。また同時に被投影体である建築が物理的なフレームとして意識されるよう演出した。
途中、雨天で作業が滞り、また筆者が蚊のアレルギーで体調を崩すこともあったが、展覧会の記者会見前日までに完成をみた。展覧会「野景― A Land of Happiness」は、中国の新年である春節を終わらせる灯篭祭りに因んで、昼から夜の22時まで毎日、光にかかわるアートを夜間に行うものだった。初日のオープニングのイベントには5千人を越える来場者があり、以降も平日で平均8百人、週末は2千人に及ぶ観客があった。筆者以外には日本からは磯崎道佳、スペインからOlga DIEGO、郭奕臣、人嶼ほか台湾の現代アーティストなど、総勢13のプロジェクトが同展に出品していた。
筆者はこれまでも何度か屋外にヴィデオ・プロジェクターを利用したインスタレーションやパフォーマンスを行ってきたが、投影の範囲と演出面の複雑さを鑑みると、今回ほど大掛かりなものを手掛けたのは、はじめてとなった。場の特異性を生かしたインスタレーションを制作することは、その場所の経年や歴史と少なからず向き合い、またホワイトキューブという加護の無い場所に設置することは挑戦的な試みである。これに加えて従来のフィルムやヴィデオに付随した画面の境界としてのフレームの問題を、本作では現実世界の生きづらさや困難さと重ね合わせるという1つの実験的な挑戦であった。
「トレジャー・ハンターズ」とは幸福を目指すために様々な努力をする現代人を代表しており、それらには誰もが上り詰めていけるという平等意識と、一方で機運により取捨選択される不条理さという、矛盾が渦巻く現実世界を象徴させたつもりだ。我々は意識的・無意識的に関わらず他者を蹴落とし、自らを高みへと移行させようと努めるよう社会的に強いられていると言える。それは現代の過熱した資本主義社会が、我々の競争原理をも加速させている結果なのかもしれない。そのような現代人の幸せに対する営為と、世界で林立しつつある壁の問題を縮図化させる形で、歴史あるトレジャー・ヒルの一角に夜の数時間のみ集団的な場への書き込んだことが、現代人の矛盾についてほんの少しの間でも考え、記憶に刻まれればと願う。
出演してくれた22名の皆さんには自身の演技が場所と重ねられるという特異な体験をしていただき、そのような体験を共有できたことを嬉しく思う。主催の台北國際芸術家村のディレクター李暁雯、キュレーターの李依樺、担当だった鄭名均ほかスタッフやインターンの皆さんにこの展覧会の機会を作ってくれたことに感謝の意を述べたい。次回作は未定だが、この経験を活かし、しばらく場と人々のイメージを投影する試みを続けていきたいと考えている。
瀧健太郎
歴史的空間という舞台装置
台北市公館近くにあるトレジャー・ヒル |
トレジャー・ヒルは台北市西南部を流れる新店渓のほとりに位置し、第二次世界大戦後の1940年代後半に大陸から移り住んだ国民党系の退役軍人らが不法占拠した際に建てられた築70年を越える集落で、それ以前の1895年から50年続いた日本による統治時代には、軍部が水源を守る為に拠点を置いた場所でもあった。しかし経年による老朽化もあり台北市は一旦この地区の再開発も考えたが、建築的に意義があるとのことで2010年に芸術家村として維持・管理して利用されることになったという。 丘陵地帯に南北に長細く続く地形に、ひしめき合うように建てられたコンクリート造りの住居には、セルフビルドを繰り返したと思われる複雑な形状や突飛な位置の玄関や窓などがあり、細い路地や階段を通り抜けて辿りつく為、散策するだけでも非常に興味深い場所だ。
何を映し出すか
展示会場の外観 |
会場視察の際に、このような考えを一番実現できそうだと考えたのが、メインの通りから細道を入ったところにある、トレジャー・ヒル内のクロスプラザ(十字広場)と呼ばれる一角であった。そこは不揃いな3階建ての建物で、2階に芸術家村の事務所と、2-3階には芸術家のスタジオ兼住居と、アニメーショの制作スタジオとして現在使われている。(正面2つの壁面には、裏側に入口のある2階の事務所からすると地階があるはずだが、入口も見当たらず、内側に何があるか不明なまま…)
この展示の場所だけを半年前に決める形となって帰国の途に就き、2018年の年内に計画を構想していった。展覧会全体のテーマが”Land of Happiness”(幸福の世界)とのことだったので、歴史的な背景と、現代の中国覇権を巡る台湾の地政学的な位置づけや、水を始めとした環境資源を収奪しようとするグローバル企業の思惑も考慮し、「幸福」を求めて人物が3階建ての建物の壁面を登っていくシンプルなものを考案した。
検討用のドローイング |
とはいうもののこの形式にはまったく物語性がないかと言えば、そうではない。登場人物たちは彼ら独自の物語として、数分の間でも何かを実行し、一区切りの動きを終えることになる。
台北での《トレジャー・ハンター》の場合は、20名ほどの人物を準備すれば、少しずつ人数が入れ替わっても、常に数人が3F建ての建物の6面を埋め尽くすことができるだろうと踏んで、構想された。登場人物が壁を前に演技し、常にいろんな場所で出来事を起こるような群像劇として、観客は1人の人物の動きを追ってもいいし、全体を動きのアンサンブルとして見てもいい、という大よその目論見が出来上がった。
現地との共同作業
制作には撮影と設営の2回台湾に行く必要があるという筆者の要望に対し、主催者も応じてくれ、年明けからEメールを通じて綿密なやりとりが行われた。まずは登場するボランティア・アクターたちの募集が芸術家村のサイトやメーリングリストを通じて呼びかけられ、最終的に10代から40代までの男女22名の地元の候補者が名乗りを挙げてくれた。筆者は2月の半ばに再度台北を訪れ、朝10時から18時まで4日間に渡り撮影を行った。スタジオ内にスロープ状と垂直型の2つの壁面セットを用意し、それぞれグリーンバックと呼ばれる映像合成用に使われる布を設置した。
実際の投影場所をパフォーマーに説明し、演出中の筆者 |
インターネットを通じて応募してくれた22名のパフォーマーは、それぞれ1時間半くらいの時間で動きを撮影した。集まったボランティア・アクターには、それぞれ「目の前の壁があるとき、どのように上るか」、「幸福を妨げるものにどう対処するか」、「あなたの宝物は何か」などの質問を投げかけ、彼らのアイデアを反映させた動きを30秒程度のシーンで演じてもらった。
彼らの想像力を掻き立てるため、実際の場所を見せて、最上階をゴールと考えるとどこからどう上っていくかを相談し、各壁面ごとの動き・次のカットへの繋がりなどを考慮しながら進めていった。更に、ただ上り詰める成功パターンだけでなく、敵の攻撃やあるいは複雑な建築構造を登り切れずに落ちるパターンも撮影した。それぞれ自分なら、こう登っていくなど即座に答えてくれ、また宝物として答えてくれたのも、金銭的なものから、家族といったものまでいろんなパターンを引き出すことができたので多様な展開ができることになった。彼らのほとんど英語ができたので(中には流ちょうな日本語を話す人も)、理解がはやく、即興的に面白い動きを考えて演じてくれたので、全員分の撮影カットを使うことに決めた。
この作品にはトレジャー・ヒルの建築の特異な形状の壁面を登っていくアイデアから、任天堂による「マリオブラザーズ」「ドンキーコング」といった初期のTVゲームの固定空間のステージを登って攻略する要素を思い描いていた。その為インタラクティヴ性はないものの、プレイヤーを妨げる象徴的な「敵」キャラクターが必要であり、当初はそれに歴史的な背景から日本兵や中国軍の兵士を仄めかすシルエットを映そうと考えていた。ちょうど2階にあたる芸術家村オフィス部分には広い窓がリノベーションによって取り付けられていたことと、この窓に向かって室内で打合せ用に使うヴィデオ・プロジェクターが備わっていたため、これを使わない手はないと考えた。既に屋外用に5台のプロジェクターを必要としておりそれ以上機材を増やすことができず、このオフィス内機材も稼働させることにした。
主催者側から日本兵のキャラクターなどは、やや具体的すぎるかも知れないというので、アニメーション表現を使って、現代人の幸福を妨げそうな5つの敵キャラクターをシルエットで交互に映し出した。設定したキャラクターはそれぞれ死を意味する「骸骨」、男性中心主義と抑圧を示す「筋肉男」、不寛容で一元的な官僚制を示す「スーツの男」、因習とオカルト的な「魔女」と、A.I.など近い将来に人の職場を脅かすかも知れない「ロボット」が、彼らに因んだ道具、毒りんごや歯車などを、登場人物たちに投げつけるようにした。
構成検討用の動きのスコア |
展示会場で観客は実際9分弱の映像の繰り返しを体験するのだが、実際は6台のプロジェクターにそれぞれ9分ずつあるので、約1時間分の映像素材を作らねばならない。6つの時間軸がパラレルに展開するので、スコアのようなものを作ってはじめたが、作業の最後には、全体のタイムラインをコンピューターの画面上で一括して俯瞰できるようにし、何が起こっているかの相関をみながら、映像のカットを抜き差ししていった。この作業は映像作品を作るというよりは、何か舞台の演出かあるいはオーケストラの指揮をするような感覚に近かった。朝8時くらいから作業をはじめ、夜10時くらいまで続け、それでも画像処理に時間がかかり、コンピューター2台を駆使して最終的に1ヵ月ほどを要した。
壁を巡るゲームの構築
設営機材はすべて防水仕様に |
建築物への設置の様子と台北の電子パーツ店 |
途中、雨天で作業が滞り、また筆者が蚊のアレルギーで体調を崩すこともあったが、展覧会の記者会見前日までに完成をみた。展覧会「野景― A Land of Happiness」は、中国の新年である春節を終わらせる灯篭祭りに因んで、昼から夜の22時まで毎日、光にかかわるアートを夜間に行うものだった。初日のオープニングのイベントには5千人を越える来場者があり、以降も平日で平均8百人、週末は2千人に及ぶ観客があった。筆者以外には日本からは磯崎道佳、スペインからOlga DIEGO、郭奕臣、人嶼ほか台湾の現代アーティストなど、総勢13のプロジェクトが同展に出品していた。
筆者はこれまでも何度か屋外にヴィデオ・プロジェクターを利用したインスタレーションやパフォーマンスを行ってきたが、投影の範囲と演出面の複雑さを鑑みると、今回ほど大掛かりなものを手掛けたのは、はじめてとなった。場の特異性を生かしたインスタレーションを制作することは、その場所の経年や歴史と少なからず向き合い、またホワイトキューブという加護の無い場所に設置することは挑戦的な試みである。これに加えて従来のフィルムやヴィデオに付随した画面の境界としてのフレームの問題を、本作では現実世界の生きづらさや困難さと重ね合わせるという1つの実験的な挑戦であった。
完成した屋外の投影型インスタレーション |
出演してくれた22名の皆さんには自身の演技が場所と重ねられるという特異な体験をしていただき、そのような体験を共有できたことを嬉しく思う。主催の台北國際芸術家村のディレクター李暁雯、キュレーターの李依樺、担当だった鄭名均ほかスタッフやインターンの皆さんにこの展覧会の機会を作ってくれたことに感謝の意を述べたい。次回作は未定だが、この経験を活かし、しばらく場と人々のイメージを投影する試みを続けていきたいと考えている。
2019年4月22日月曜日
博論執筆の忘備録
バック・トゥ・スクール!
筆者の博士論文審査が2019年1月末に行われ、3月26日に晴れて横浜国立大学大学院の学術博士の取得という運びとなった。(プルプル…打ち震えて!)筆者は国大の社会人枠として本来3年間の課程を、働きながら最大6年まで延長して在籍できる手続きを取っていた。しかし正直な話、経済的困難もあり、あと1年延びていたら断念せねばならず、実際に5年間で終えることができてホッとしている。
事の発端はまだ以前に勤めていた早稲田大学の映像系専門学校の教員だった際に、自分の考えを纏めて、書くことが必要だと考えたことにある。筆者はヴィデオを使ったアート制作と発表を続けており、それまでもアートイベントや美術館での発表の機会に恵まれてはいたものの、自作を含めたメディアの状況やアートの現状などを日記的に記録する以上には発展しないことに少し物足りなさを感じていた。
何よりも日々仕事に追われ、本を読む時間がなく、読んだとしても断片的に拾い読む程度で、主体的に書籍を選み、考えを紡ぐ文脈を見出せずにいた。またその勤め先の学校が学生募集を停止し、筆者は解雇の身となるのだが、その際に大学院以上の学位がないと教育機関として留任させることができないという趣旨を学校側に突き付けられたことも一つの理由だ。つまり、いくら作品制作や発表の実績や、教育現場の経験があったとしても、所詮アカデミックな現場にはそれ相応の資格がなくては「いつでもさよなら」だということだった。これには幾分か腹が立ったが、言われてみれば、アートや表現行為を客観的に精査する能力を自分が持っているかは疑問だった。解雇前に担当していた学生が、進学するというので、親身になって相談に乗りつつも、筆者もそれらの情報から「自分ならどこで勉強したいか…」といくつか目ぼしをつけていった。
解雇後は再就職する予定で仕事を探したがなかなか条件に合う職場がなく、そこで一旦再就職は諦めアルバイトをしながら、当時は多少貯蓄もあったので、博士課程の3年くらいは何とか学費は支払えそうだと踏んで、その後改めて進学を目指すことにしてみた。
道のりは遠く
大学院受験には研究計画が必要なのだが、当初は「都市と映像メディアの関係」という非常に抽象的で、曖昧なテーマを掲げていた。これでは研究対象が明確でなく、何一つ具体的に論じることはできない。しかし筆者はヴィデオアートの制作活動をするなかで、どうしても都市の問題系と、メディアが持つ「情報操作による欺き・はぐらかし」とそれを「逆手にとって抵抗すること」の両義的な意義への興味が年々強まっており、どれだけ貧しい結論であったとしても、自分なりに一度向き合ってみたいと考えていた。
折しもアカデミックな分野では文理融合の考えの下、学際的で複合的な学科がいくつか開設されており、横浜国立大学に都市イノベーションという建築と美学の横断的領域ができたことを知り、さっそく映画系の先生に連絡を取ってみた。メールのやりとりで、筆者の考えている方向ならこの先生ではと、視覚論の先生を紹介され、結局その先生は博士課程の主査になれないということで、最終的に室井尚さんを紹介していただき、先生との相談で入学をすることになった。室井氏は思想、美学、科学、メディア論まで幅広く研究を展開されてきた方で、演出家の唐十郎を横浜国立大学に呼んだ人として筆者が学生の頃に知っていた程度で、後に北仲スクールや横浜トリエンナーレでの「巨大バッタ」を手掛けた作家兼オーガナイザーとして活動された方だということが徐々に繋がっていく。室井氏からしてみればアーティスト気取りに若い兄ちゃんが何か論文書きたいといって、ひょっこり現れた程度にしか思っておられなかったと思う。実際そうだし、面談を繰り返す中で「君には書けない」「無理」と何度も念押しをされた。
考えてみれば筆者が修士論文を書いたのは20年前の90年代半ば、その時の論文は2万字程度の簡単なもので、制作と論文の両方の提出だったので、今読み返せば事例を挙げ共通点を見出すだけに、レポートの延長的なものでしかなかった。
それに対し、今回はまず研究テーマの再考にはじまり、2年間ほどはほとんどそれに費やす事になった。ここから言い訳なのだが、社会人大学院生といっても、結局のところ筆者には美大の非常勤講師に仕事がたまにあるだけで、それだけでは生活も成り立たないため、アルバイトをしながらの就学となり、この仕事との時間調整が非常に難しかった。フリーランスとしてカメラ撮影と編集の他、ヴィデオアート作品の修復調査や、WEBデザインなど、出来ることは何でもこなした。当然、いずれの仕事も短縮して手を抜くわけにもいかず、結局研究する時間を蝕んでいくことに。同時にNPOで活動しているアート活動のマネジメントや、不定期に入ってくるアーティストとしての仕事も断るわけにもいかず、論文執筆に当てる時間がなく作業は遅滞していった。
3年目の正直…
横浜国立大学の博士課程では初年度は授業に出席が必須とのことだったので、週2、3日は大学に赴き、キャンパスライフを謳歌することになった。帰宅後と大学の無い日に仕事を行う事になり、家族には経済的にも時間的にも負担をかけてしまう。2015年にはインドネシアの国際学会で発表をするも、まだピントが曖昧で、担当教授からは、まどろっこしく何をやっているかわからない学生として映っていたと思われる。それでも3年目に入ったところで、それまで都市と映像の関係としての項目に夜間の都市へのスライド投影として取り上げようとしていたクシシュトフ・ヴォディチコついて、きちんと取り扱ったモノローグとしては論文執筆してはどうかという話になり、そこからようやく集中的に作業が動き始めた。
筆者はまず対象に関わる1960年代から近年に至るまでの主要な英語文献を訳すところからはじめ、課程の3年目と4年目はほとんどこの作業にあてられた。この作業の間に論文のテーマを決めていくのだが、先行的な研究や論考を読み進めていくと既に取り上げられ、解決済ということもあり、新しい視点を見出す事は難しかった。また実作を2011年の横浜トリエンナーレでしか見たことがなかった自分としては、ヴォディチコの〈パブリック・プロジェクション〉シリーズや装置類などをより詳しく検証したいと考え、より細かな調査を開始した。
3年目となる2016年3月に、フランスのクレルモン・フェランのヴィデオフェスティバルに呼ばれ自作を発表する機会を得たので、パリ経由でTGVに乗ってナントに赴き、ヴォディチコの《奴隷廃止記念》(2011)のモニュメントを見学した。また同年には東京都のアーティスト・レジデンスの助成金が取れたので、3か月のベルリン滞在期間中、そこを拠点として、イギリスはリヴァプールで行われていたヴォディチコの回顧展と、またポーランドはワルシャワとウッチに行き、彼のポーランド時代の作品や活動と、同時代のメディアアートの状況について調査した。また8月の末にヴァイマールで行われたゲーテとシラー像への投影に参加し、現場を見ることができた。そしてこのヨーロッパを滞在中に、手に入れるべきカタログや資料を手に入れることができた。それまでこのインターネットの時代においても、オンラインでは入手困難な資料があったので、非常に助かった。また自身の制作活動を通じて、前年に来日していたポーランドのヴィデオ・アーティストと知り合っていたので、彼を頼ってウッチを案内してもらった。
この間、飯村隆彦さんからMITが出している美術誌「オクトーバー」のバックナンバーを大量に譲って頂き、この中にヴォディチコのインタビューや関連文献を多く参照することができた。また20年ほど前に知り合った福住治夫さんが編集させる『あいだ誌』にも和訳の文章を見つけるなど、これまでの筆者のツテを頼って資料を手に入れることができた。
翌年2017年7月にヴォディチコ氏が横浜での作品制作を模索するべく来日し、彼の将来のプロジェクトのための調査を行った。室井氏率いる横浜都市文化ラボ主催で何度もヴォディチコを招聘し、本人とも話をさせていただく機会に恵まれ、これらはほとんど筆者の論文のためのイベントとも言え、感謝の意は尽きない。この年の8月にソウル現代美術館でのヴォディチコの回顧展を見学させていただいたのも横浜都市文化ラボのワークショップの一環で、書きかけていた断片を少しずつまとめて行った。
形式的で門切型の文脈での分析しかできていなかったが、次第に少し有機的に腑分けすることができはじめた。心理的な分析を心理療法的なアプローチに拘わり過ぎていたので、室井先生からは、それだけではだめだと言われ、一端通史としてヴォディチコの1960年代からきちんと振り返ることにした。この作業は非常に楽しく、アーティストの半生を辿りながら、先行的な資料が見逃している点や間違いなども見つけていくことができ、自分だけが知り得る部分などが出てきた。
4年目の夏休み明けに室井先生が見るに見かねて、合宿と称して横浜都市文化ラボで1日朝から晩まで集中して書くことになり、これをきっかけに全体構成と各章立てを具体的に形作られた。2017年の暮れから、翌年の春休みかけて分量は増えて、はじめて文章を削る作業に入ることができた。その都度、当初から続けていた英訳しておいた文献が役に立ち、常に新しいトピックに対し、作者や研究者がどう考えたかを洗い出していった。時代区分を追うことで、ポーランドのアーティストが渡米を経て、世界的なアーティストとなる足取りを追い、同時に東欧の状況から西側へ来たこと、東西冷戦の崩壊とその後の加熱するマネー資本主義、大国主義とテロの時代と、自分では高校時代に起きた出来事からこちら側への世界情勢を、通史ではなくヴォディチコの視点を通じて、文化的な立場でトレースする作業となった。
こんな仕事半分、論文半分の生活で貯蓄も使い果たし、いよいよ経済的に厳しくなったが、4年目には非常勤講師をしていた武蔵野美術大学のクリストフ・シャルルさんが研究休暇に出るとのことで、留守の間の授業などを任され、週2日ではあったが固定した収入が得られ、何とか論文執筆の作業を続けることができた。母校でもあるムサ美の図書館には豊富な資料があり、ヴォディチコに関連する欧米資料を含め、授業の前後には図書館での調べものに当てることができた。タイミング的にも実にラッキーだった!。
そして調べ上げた資料は対象となるアーティストの辞書のような形で作られたが、それをどのように分析し、どの視点から見出すのかが最後の最後まで難関として立ちはだかった。その最中の論文作業の最後の段になり、ふと高校時代にヴォディチコの作品を見ていた記憶が蘇った。それは彼が湾岸戦争勃発後に大国の石油利権と戦争勃発を批判する意味で、バルセロナのフランコ政権時代の凱旋門にスライド投影した1992年の《勝利の門》だった。高校時代の筆者の実家で定期購読していたNEWSWEEK誌の最後の頁にアート欄があり、スペインで行われたこの投影について写真が一枚掲載されおり、辞書を引きながら調べた記憶があったのだ。当時の自分にはよく意味が分かっていなかったが、新手のライトアートのようなものとして興味を示していたのだと思う。四半世紀を経て、再度同じアーティストについて詳しく調べることになるとは当時の自分は知る由もない。
謝辞と今後
何もかもが行き当たりばったりの展開だったが、途中くじけそうになる瞬間にも何らかの救いがあり、幸運に見舞われた5年間だった。一番の困難はやはり経済的な事情で、これも余談だが、大学の手続き上、論文の審査段階で学費を全額納付しなければならなかったことは痛手だった。(まだ審査の途中、もう一年留年する恐れもあったため)
収入源のフリーランスでの仕事は、クライアントの都合で入金が2か月後と遅れたりすることが多々ある。学費完納後は、論文もすでに提出後だったので、その場で出来る仕事は何でも引き受けた。
5年間は今思えばあっという間だったが、誰もいなくなった平日午前中の居間で英訳や文献を調べる作業時間は贅沢なものであり、当初の思い描いていた読書し、考える時間を獲得できる稀有な機会であったと思う。この間、小2だった息子は小学校を卒業し、姪が生まれ、父が亡くなるなどの出来事も起きた。これを書く今は、あと1ヵ月足らずで平成が終わろうとしており、欧州はブレグジットをはじめとしたEU分断に揺れ、アメリカはメキシコ国境との間に壁を作ろうとし、日中韓の政治的局面は小競り合いを続けるという、2010年代末的な状況が相変わらず続いている。
ヴォディチコが冷戦時代から、その後の雪解け、テロの時代のなかで、制作を続けてきたことを調べたことは、筆者にとって大きな指針と勇気を与えられたと思う。時にペシミスティックな眼差しで世界情勢を見つめているにも関わらず、常にユーモアを忘れることなく、作り続ける彼の意思のオプティミズムを感じた。論文の結論はどちらかというとイデオロギーを越える、ある種の精神論のような話で締めくくったのだが、それが今回の自分の中でも大きな収穫であり、彼の人生の中で見逃せない特異な点だと考えている。
審査員の先生方には多大なご協力いただき、最後まで面倒を見ていただいた。みることから考えること、そしてそれを書き留めておくことは非常に重要なことだし、テキストをじっくり書く時間というものは誰にでもできそうで、なかなかに容易なことはない。そのような時間を与えられ、一定の成果を出せたことは、筆者にとって本当に至福の時間であった。ただし、同じことを誰でも薦めようとは思わない。恐らく既に論文執筆の経験があり、研究のノウハウを知っている人であれば容易なのかも知れないが、筆者のように「四十の手習い」で始めるには荷が大きく、失敗の可能性も多分にある。そのような「中年の危機」の犠牲となり、稼ぎもないのにたまの休みにすら家に閉じこもってどこにも家族を連れて行かないことに家人と息子は協力してくれた。こちらも改めて感謝したいと思う。
この論文を書いたところで、今のところ筆者の生活には何も変化がない。4月から非常勤の授業が一つ増えただけで、生活が安定するわけでもなく前途は多難だ。ただし精神的には何かを終えた感覚と、モノづくりやアートを生業にすることへの鼓舞を頂けたとひしひしと感じている。「四十にして惑わず」と言えるかどうかわからないが、少なくとも「五十にして天命を知る」までのプロセスとして非常に貴重な経験をすることができた。
2019年7月追記:
*論文はこちらでご覧いただけます。(横浜国立大学学術情報リポジトリ)
「記憶のヴィークル(乗り物)としてのアート・プロジェクト:クシシュトフ・ヴォディチコのアート戦略」
筆者の博士論文審査が2019年1月末に行われ、3月26日に晴れて横浜国立大学大学院の学術博士の取得という運びとなった。(プルプル…打ち震えて!)筆者は国大の社会人枠として本来3年間の課程を、働きながら最大6年まで延長して在籍できる手続きを取っていた。しかし正直な話、経済的困難もあり、あと1年延びていたら断念せねばならず、実際に5年間で終えることができてホッとしている。
事の発端はまだ以前に勤めていた早稲田大学の映像系専門学校の教員だった際に、自分の考えを纏めて、書くことが必要だと考えたことにある。筆者はヴィデオを使ったアート制作と発表を続けており、それまでもアートイベントや美術館での発表の機会に恵まれてはいたものの、自作を含めたメディアの状況やアートの現状などを日記的に記録する以上には発展しないことに少し物足りなさを感じていた。
何よりも日々仕事に追われ、本を読む時間がなく、読んだとしても断片的に拾い読む程度で、主体的に書籍を選み、考えを紡ぐ文脈を見出せずにいた。またその勤め先の学校が学生募集を停止し、筆者は解雇の身となるのだが、その際に大学院以上の学位がないと教育機関として留任させることができないという趣旨を学校側に突き付けられたことも一つの理由だ。つまり、いくら作品制作や発表の実績や、教育現場の経験があったとしても、所詮アカデミックな現場にはそれ相応の資格がなくては「いつでもさよなら」だということだった。これには幾分か腹が立ったが、言われてみれば、アートや表現行為を客観的に精査する能力を自分が持っているかは疑問だった。解雇前に担当していた学生が、進学するというので、親身になって相談に乗りつつも、筆者もそれらの情報から「自分ならどこで勉強したいか…」といくつか目ぼしをつけていった。
解雇後は再就職する予定で仕事を探したがなかなか条件に合う職場がなく、そこで一旦再就職は諦めアルバイトをしながら、当時は多少貯蓄もあったので、博士課程の3年くらいは何とか学費は支払えそうだと踏んで、その後改めて進学を目指すことにしてみた。
道のりは遠く
大学院受験には研究計画が必要なのだが、当初は「都市と映像メディアの関係」という非常に抽象的で、曖昧なテーマを掲げていた。これでは研究対象が明確でなく、何一つ具体的に論じることはできない。しかし筆者はヴィデオアートの制作活動をするなかで、どうしても都市の問題系と、メディアが持つ「情報操作による欺き・はぐらかし」とそれを「逆手にとって抵抗すること」の両義的な意義への興味が年々強まっており、どれだけ貧しい結論であったとしても、自分なりに一度向き合ってみたいと考えていた。
折しもアカデミックな分野では文理融合の考えの下、学際的で複合的な学科がいくつか開設されており、横浜国立大学に都市イノベーションという建築と美学の横断的領域ができたことを知り、さっそく映画系の先生に連絡を取ってみた。メールのやりとりで、筆者の考えている方向ならこの先生ではと、視覚論の先生を紹介され、結局その先生は博士課程の主査になれないということで、最終的に室井尚さんを紹介していただき、先生との相談で入学をすることになった。室井氏は思想、美学、科学、メディア論まで幅広く研究を展開されてきた方で、演出家の唐十郎を横浜国立大学に呼んだ人として筆者が学生の頃に知っていた程度で、後に北仲スクールや横浜トリエンナーレでの「巨大バッタ」を手掛けた作家兼オーガナイザーとして活動された方だということが徐々に繋がっていく。室井氏からしてみればアーティスト気取りに若い兄ちゃんが何か論文書きたいといって、ひょっこり現れた程度にしか思っておられなかったと思う。実際そうだし、面談を繰り返す中で「君には書けない」「無理」と何度も念押しをされた。
考えてみれば筆者が修士論文を書いたのは20年前の90年代半ば、その時の論文は2万字程度の簡単なもので、制作と論文の両方の提出だったので、今読み返せば事例を挙げ共通点を見出すだけに、レポートの延長的なものでしかなかった。
それに対し、今回はまず研究テーマの再考にはじまり、2年間ほどはほとんどそれに費やす事になった。ここから言い訳なのだが、社会人大学院生といっても、結局のところ筆者には美大の非常勤講師に仕事がたまにあるだけで、それだけでは生活も成り立たないため、アルバイトをしながらの就学となり、この仕事との時間調整が非常に難しかった。フリーランスとしてカメラ撮影と編集の他、ヴィデオアート作品の修復調査や、WEBデザインなど、出来ることは何でもこなした。当然、いずれの仕事も短縮して手を抜くわけにもいかず、結局研究する時間を蝕んでいくことに。同時にNPOで活動しているアート活動のマネジメントや、不定期に入ってくるアーティストとしての仕事も断るわけにもいかず、論文執筆に当てる時間がなく作業は遅滞していった。
3年目の正直…
横浜国立大学の博士課程では初年度は授業に出席が必須とのことだったので、週2、3日は大学に赴き、キャンパスライフを謳歌することになった。帰宅後と大学の無い日に仕事を行う事になり、家族には経済的にも時間的にも負担をかけてしまう。2015年にはインドネシアの国際学会で発表をするも、まだピントが曖昧で、担当教授からは、まどろっこしく何をやっているかわからない学生として映っていたと思われる。それでも3年目に入ったところで、それまで都市と映像の関係としての項目に夜間の都市へのスライド投影として取り上げようとしていたクシシュトフ・ヴォディチコついて、きちんと取り扱ったモノローグとしては論文執筆してはどうかという話になり、そこからようやく集中的に作業が動き始めた。
筆者はまず対象に関わる1960年代から近年に至るまでの主要な英語文献を訳すところからはじめ、課程の3年目と4年目はほとんどこの作業にあてられた。この作業の間に論文のテーマを決めていくのだが、先行的な研究や論考を読み進めていくと既に取り上げられ、解決済ということもあり、新しい視点を見出す事は難しかった。また実作を2011年の横浜トリエンナーレでしか見たことがなかった自分としては、ヴォディチコの〈パブリック・プロジェクション〉シリーズや装置類などをより詳しく検証したいと考え、より細かな調査を開始した。
3年目となる2016年3月に、フランスのクレルモン・フェランのヴィデオフェスティバルに呼ばれ自作を発表する機会を得たので、パリ経由でTGVに乗ってナントに赴き、ヴォディチコの《奴隷廃止記念》(2011)のモニュメントを見学した。また同年には東京都のアーティスト・レジデンスの助成金が取れたので、3か月のベルリン滞在期間中、そこを拠点として、イギリスはリヴァプールで行われていたヴォディチコの回顧展と、またポーランドはワルシャワとウッチに行き、彼のポーランド時代の作品や活動と、同時代のメディアアートの状況について調査した。また8月の末にヴァイマールで行われたゲーテとシラー像への投影に参加し、現場を見ることができた。そしてこのヨーロッパを滞在中に、手に入れるべきカタログや資料を手に入れることができた。それまでこのインターネットの時代においても、オンラインでは入手困難な資料があったので、非常に助かった。また自身の制作活動を通じて、前年に来日していたポーランドのヴィデオ・アーティストと知り合っていたので、彼を頼ってウッチを案内してもらった。
この間、飯村隆彦さんからMITが出している美術誌「オクトーバー」のバックナンバーを大量に譲って頂き、この中にヴォディチコのインタビューや関連文献を多く参照することができた。また20年ほど前に知り合った福住治夫さんが編集させる『あいだ誌』にも和訳の文章を見つけるなど、これまでの筆者のツテを頼って資料を手に入れることができた。
翌年2017年7月にヴォディチコ氏が横浜での作品制作を模索するべく来日し、彼の将来のプロジェクトのための調査を行った。室井氏率いる横浜都市文化ラボ主催で何度もヴォディチコを招聘し、本人とも話をさせていただく機会に恵まれ、これらはほとんど筆者の論文のためのイベントとも言え、感謝の意は尽きない。この年の8月にソウル現代美術館でのヴォディチコの回顧展を見学させていただいたのも横浜都市文化ラボのワークショップの一環で、書きかけていた断片を少しずつまとめて行った。
形式的で門切型の文脈での分析しかできていなかったが、次第に少し有機的に腑分けすることができはじめた。心理的な分析を心理療法的なアプローチに拘わり過ぎていたので、室井先生からは、それだけではだめだと言われ、一端通史としてヴォディチコの1960年代からきちんと振り返ることにした。この作業は非常に楽しく、アーティストの半生を辿りながら、先行的な資料が見逃している点や間違いなども見つけていくことができ、自分だけが知り得る部分などが出てきた。
4年目の夏休み明けに室井先生が見るに見かねて、合宿と称して横浜都市文化ラボで1日朝から晩まで集中して書くことになり、これをきっかけに全体構成と各章立てを具体的に形作られた。2017年の暮れから、翌年の春休みかけて分量は増えて、はじめて文章を削る作業に入ることができた。その都度、当初から続けていた英訳しておいた文献が役に立ち、常に新しいトピックに対し、作者や研究者がどう考えたかを洗い出していった。時代区分を追うことで、ポーランドのアーティストが渡米を経て、世界的なアーティストとなる足取りを追い、同時に東欧の状況から西側へ来たこと、東西冷戦の崩壊とその後の加熱するマネー資本主義、大国主義とテロの時代と、自分では高校時代に起きた出来事からこちら側への世界情勢を、通史ではなくヴォディチコの視点を通じて、文化的な立場でトレースする作業となった。
こんな仕事半分、論文半分の生活で貯蓄も使い果たし、いよいよ経済的に厳しくなったが、4年目には非常勤講師をしていた武蔵野美術大学のクリストフ・シャルルさんが研究休暇に出るとのことで、留守の間の授業などを任され、週2日ではあったが固定した収入が得られ、何とか論文執筆の作業を続けることができた。母校でもあるムサ美の図書館には豊富な資料があり、ヴォディチコに関連する欧米資料を含め、授業の前後には図書館での調べものに当てることができた。タイミング的にも実にラッキーだった!。
そして調べ上げた資料は対象となるアーティストの辞書のような形で作られたが、それをどのように分析し、どの視点から見出すのかが最後の最後まで難関として立ちはだかった。その最中の論文作業の最後の段になり、ふと高校時代にヴォディチコの作品を見ていた記憶が蘇った。それは彼が湾岸戦争勃発後に大国の石油利権と戦争勃発を批判する意味で、バルセロナのフランコ政権時代の凱旋門にスライド投影した1992年の《勝利の門》だった。高校時代の筆者の実家で定期購読していたNEWSWEEK誌の最後の頁にアート欄があり、スペインで行われたこの投影について写真が一枚掲載されおり、辞書を引きながら調べた記憶があったのだ。当時の自分にはよく意味が分かっていなかったが、新手のライトアートのようなものとして興味を示していたのだと思う。四半世紀を経て、再度同じアーティストについて詳しく調べることになるとは当時の自分は知る由もない。
謝辞と今後
何もかもが行き当たりばったりの展開だったが、途中くじけそうになる瞬間にも何らかの救いがあり、幸運に見舞われた5年間だった。一番の困難はやはり経済的な事情で、これも余談だが、大学の手続き上、論文の審査段階で学費を全額納付しなければならなかったことは痛手だった。(まだ審査の途中、もう一年留年する恐れもあったため)
収入源のフリーランスでの仕事は、クライアントの都合で入金が2か月後と遅れたりすることが多々ある。学費完納後は、論文もすでに提出後だったので、その場で出来る仕事は何でも引き受けた。
5年間は今思えばあっという間だったが、誰もいなくなった平日午前中の居間で英訳や文献を調べる作業時間は贅沢なものであり、当初の思い描いていた読書し、考える時間を獲得できる稀有な機会であったと思う。この間、小2だった息子は小学校を卒業し、姪が生まれ、父が亡くなるなどの出来事も起きた。これを書く今は、あと1ヵ月足らずで平成が終わろうとしており、欧州はブレグジットをはじめとしたEU分断に揺れ、アメリカはメキシコ国境との間に壁を作ろうとし、日中韓の政治的局面は小競り合いを続けるという、2010年代末的な状況が相変わらず続いている。
ヴォディチコが冷戦時代から、その後の雪解け、テロの時代のなかで、制作を続けてきたことを調べたことは、筆者にとって大きな指針と勇気を与えられたと思う。時にペシミスティックな眼差しで世界情勢を見つめているにも関わらず、常にユーモアを忘れることなく、作り続ける彼の意思のオプティミズムを感じた。論文の結論はどちらかというとイデオロギーを越える、ある種の精神論のような話で締めくくったのだが、それが今回の自分の中でも大きな収穫であり、彼の人生の中で見逃せない特異な点だと考えている。
審査員の先生方には多大なご協力いただき、最後まで面倒を見ていただいた。みることから考えること、そしてそれを書き留めておくことは非常に重要なことだし、テキストをじっくり書く時間というものは誰にでもできそうで、なかなかに容易なことはない。そのような時間を与えられ、一定の成果を出せたことは、筆者にとって本当に至福の時間であった。ただし、同じことを誰でも薦めようとは思わない。恐らく既に論文執筆の経験があり、研究のノウハウを知っている人であれば容易なのかも知れないが、筆者のように「四十の手習い」で始めるには荷が大きく、失敗の可能性も多分にある。そのような「中年の危機」の犠牲となり、稼ぎもないのにたまの休みにすら家に閉じこもってどこにも家族を連れて行かないことに家人と息子は協力してくれた。こちらも改めて感謝したいと思う。
この論文を書いたところで、今のところ筆者の生活には何も変化がない。4月から非常勤の授業が一つ増えただけで、生活が安定するわけでもなく前途は多難だ。ただし精神的には何かを終えた感覚と、モノづくりやアートを生業にすることへの鼓舞を頂けたとひしひしと感じている。「四十にして惑わず」と言えるかどうかわからないが、少なくとも「五十にして天命を知る」までのプロセスとして非常に貴重な経験をすることができた。
2019年7月追記:
*論文はこちらでご覧いただけます。(横浜国立大学学術情報リポジトリ)
「記憶のヴィークル(乗り物)としてのアート・プロジェクト:クシシュトフ・ヴォディチコのアート戦略」
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